証如書状(しょうにょしょじょう) [目録を見る] [ 宝物解説へ ]
本願寺10世・証如(1516~54)の母・慶寿院鎮永は、勝興寺第8代住職・実玄(1486~1545)の妻の妙勝(1489~1574)の4歳下の妹である。その縁で勝興寺は本願寺一門として尊重された。
下間民部少輔は頼辰である。天文5年(1536)に52歳で没した頼助の子であり、「下間家系図」には「運次、民部丞、隠岐守、母神保ゝゝ女」と説明されている。頼辰の誕生は永正3年(1506)、一向一揆後の北陸の本願寺教団と放生津館にいる越中守護代・神保慶宗方との融和の象徴であったと思われる。
この文書では、本願寺の享禄の錯乱(1531)において大一揆派を支え、勢力を強めた坊官・下間筑前守頼秀(?~1539)は、瑞泉寺・善徳寺を勝興寺の与力寺院とする旨の指令を出したと言っている。しかし天文4年(1535)に大坂(石山)本願寺が細川晴元(1514~63)と和睦した際に頼秀兄弟は抗戦を主張して、9月に失脚した。その事態を受けて証如は「筑前の所業は、言語道断の曲事である」と述べ、頼秀らの武闘路線を本願寺の安全を脅かすものだと非難するとともに、勝興寺にも慎むよう諌めたのである。この書状は翌天文5年のものであろう。
(久保尚文)
(佐伯安一) |