武田信玄・同勝頼連署書状

武田信玄・同勝頼連署書状


武田信玄・同勝頼連署書状(たけだしんげん どう かつよりれんしょしょじょう)     [目録を見る]   [ 宝物解説へ ]
 武田信玄(1521~73)とその子・勝頼(1546~82)が連署して、勝興寺第9代住職・顕栄(1509~84)に届けた書状である。本史料も上杉謙信への対抗を目的とした、信玄・越中間の交渉の一例である。
 この年の8月、謙信は自ら越中に攻め込み、18日には富山の至近に陣を布き、その後富山に圧力を加え続けた。この間、勝興寺をはじめとする越中の反上杉方は、信玄が兵を北に進めて、謙信の本拠たる越後を衝くことを期待したと思われる。しかし、この頃信玄の関心は南を向いており、遠江・三河方面に進出して、徳川家康・織田信長と対決する気構えであった。このため、越中の救援に動くことはなかった。その言い訳のために書かれたのが、この書状である。
 具体的な内容は、
①遠江・三河作戦に時間を取られ、越後作戦は遅れてしまった。
②ようやく時間ができたので行動を起こしたが、途中で病気に罹り、進むことができなくなった。
③そうこうしているうちに謙信は本国に戻り、戦機は去ってしまったので、仕方なく陣を引いた、となっている。その上で、今は病気も平癒したので、改めて父子ともに出馬するつもりである、と述べている。
 ②の「行動を起こした」というのが本当のことであるか、口先だけの言い逃れであるかははっきりしないが、信玄の死がこれよりわずか半年後であることからすれば、「病気に罹り、進むことができなくなった」というのは本当かもしれない。
 本史料の最大の見どころは、差出書が信玄・勝頼の連署になっていることである。原本が現存しているものとしては、本史料が唯一の例である。原本は失われ内容の筆録のみが伝わる場合を含めても、他にもう一例が知られているに過ぎず(「武家事紀」巻33)、極めて珍しいものといえる。
 信玄が勝頼との連署を選んだのは、上述のような信玄の健康状態と無関係ではなかろう。この書状を書いた直後、信玄は再び遠江・三河に向けて出陣しており、顕栄に対する言明とは裏腹に、ただちに越後作戦を再開するつもりはなかったものとみられる。越後作戦は、信玄の考えでは次期あるいは次々期の作戦であったのだろう。しかし、その頃には自分はもうこの世にはいない、少なくとも陣頭指揮はできない、そのような自覚もあったに違いない。自分が倒れても勝頼が責任を持って作戦を引き継ぐ、この点を顕栄に明示するために、勝頼にも連署させたのではないだろうか。

(鴨川達夫)


 其國之様子餘無心許候そのくにのようすあまりにこころもとなく候
 条、以飛脚申候、抑不慮之じょう、ひきゃくをもってもうし候、そもそもふりょの
 仕合故、富山落居無是しあわせゆえ、とやまらっきょぜひなき
 非次第候、去年以來、賀・越しだいに候、きょねんいらい、が・えつ
 兩州對陣之事候之間、りょうしゅうたいじんのこと候のあいだ、
 随分手合之備無油ずいぶんてあわせのそなえゆだん
 斷候キ、雖然信玄自なく候き、しかりといえどもしんげんじしん
 身至于越後亂入之儀者、えちごにいたりらんにゅうのぎは、
 遠・三之動無據故遅々、えんさんのはたらきよんどころなきゆえちぢ、
 其已後彼表明隙歸陣候それいごかのおもてひまをあけきじん候
 条、直ニ向越府可動干戈之じょう、ただちにえっぷにむけてかんかをはたらかすべきの
 旨令儀定、既信・越之境迄むねぎじょうせしめ、すでにしん・えつのさかいまで
 先衆立遣候之處、於于さきしゅうをたてつかわし候のところ、とちゅう
 途中得病気躊躇之砌、においてびょうきをえてちゅうちょのみぎり、
 輝虎退散ニ付而、無役ニてるとらたいさんについて、むえきに
 納馬候、信玄煩も平元之形候、うまをおさめ候、しんげんわずらいもへいげんのかたちに候、
 然則後詰之行、聊不可有しからばすなわちごつめのてだて、いささかもようしゃ
 用捨候、無二父子可令出馬候あるべからず候、むににふししゅつばせしむべく候
 間、加州衆重而出張、其國あいだ、かしゅうしゅうかさねてしゅっちょう、そのくに
 静謐候之樣御肝煎尤候、せいひつ候のようおきもいりもっともに候、
 委曲期來信之時候、恐々敬白、いきょくらいしんのときをごし候、きょうきょうけいはく、
 (天正元年)
 十月朔日     信玄(花押)
          勝頼(花押)
  勝興寺
    几下

(鴨川達夫)