浅井長政書状(あざいながまさしょじょう)
[目録を見る] [ 宝物解説へ ] 浅井長政(1545~73)は、近江の北部に拠った戦国大名。織田信長の妹・お市を娶ったことで知られるが、後に親信長の態度を改め、隣国越前の朝倉義景(1533~73)をはじめ、将軍足利義昭、本願寺第11世・顕如(1543~92)、武田信玄(1521~73)らと連携して、信長に立ち向かった。
本史料は、元亀4年(1573)2月、長政が勝興寺第9代住職・顕栄(1509~84)に届けた書状である。勝興寺など越中の本願寺系寺院は、顕如に従う立場からも、信長と結ぶ上杉謙信と対峙する立場からも、上述の反信長グループの一部を構成することになり、そのため長政と顕栄の接触が生じたのである。この書状では、まず越中の情勢に関する意見を伝え、次に反信長運動の進捗状況を報せている。
この頃越中では、前年来の謙信の攻勢が止まず、勝興寺をはじめとする反上杉方は、苦戦を強いられていた。こうした状況の中、長政が様子を尋ねる書状を送ったところ、顕栄から返信が届き、それを受けてまた書かれたのが、すなわちこの書状である。顕栄は謙信と和睦したいと言って来たらしく、長政は、信玄に無断で和睦するのは不都合である、味方の全員が納得しなければ駄目だ、などと述べて、これを思い止まらせようとしている。「信玄に無断の和睦は不都合」というのは、越中で和睦が成立した場合、手空きとなった謙信が、今度は武田領に乱入するかもしれないと考えたのであろう。後に述べるように、この時信玄は三河方面に出動中で、本国を留守にしていたのである。
書状の後半では、義昭が義景と長政に檄を飛ばしたこと、自分は近江滋賀郡を制圧したこと、信玄の勢力は遠江・三河はおろか美濃にまで及んでいることなどを報せている。その上で、諸方面ともうまく進んでいるから、越中でももう少し頑張るように、と激励している。この後、4月になると謙信は本国に帰り、越中の情勢は小康状態となる。しかし、同じ4月に信玄が陣中で病没し、8月には義景・長政が相次いで信長に滅ぼされ、反信長グループは完全に崩壊してしまうことになる。
(鴨川達夫)
(ウワ書) | 「 淺井備前守 | 勝興寺御同宿中 長政」 | 今度啓達候處、御懇報、 | このたびけいたつ候ところ、ごこんぽう、 | 畏悦候、其表之御樣躰具承 | いえつに候、そのおもてのごようたいつぶさにうけたまわり | 満足候、雖不及申、弥御堅固之御備 | まんぞくに候、もうすにおよばず候といえども、いよいよごけんごのおそなえ | 可爲專一候、輝虎和与之懇望候共、 | せんいつたるべく候、てるとらわよのこんもう候とも、 | 信玄江無御相談而者、一向無勿躰候、 | しんげんへごそうだんなくては、いっこうもったいなく候、 | 敵計略ニ申族可有之候、御一味中 | てきのけいりゃくにもうすやからもこれあるべく候、ごいちみちゅう | 被示合、互於同心上者別条候、 | しめしあわされ、たがいにどうしんのうえににおいてはべつじょうに候、 | 御門主樣江モ右之通連々得、 | ごもんしゅさまへもみぎのとおりれんれんぎょいを | 御意候、將又當月十三日 | え候、はたまたとうげつじゅうさんにち | 公方様被立御色、義景・拙身江 | くぼうさまみいろをたてられ、よしかげ・せっしんへ | 被成下 御内書候、爲御披見写、 | ごないしょをなしくだされ候、ごひけんのためうつしを | 進入候、當國志賀郡一篇此方屬 | まいらせいれ候、とうこくしがぐんいっぺんにこのほうのてに | 手候、東國之儀、遠州・三州不及申 | ぞくし候、とうごくのぎ、えんしゅう・さんしゅうはもうすにおよばず | 東美濃加治田・つぼ・奈多尾三 | ひがしみのかじた・つぼ・なたおさん | ケ所城、兼而信玄江申合ニ、甲 | かしょのしろ、かねてしんげんへもうしあわするに、こうしゅうの | 州先勢至東濃亂入候、義景當 | さきぜいとうのうにいたりらんにゅう候、よしかげとうおもて | 表早々進發相極候、申談可及 | そうそうしんぱつにあいきわまり候、もうしだんじてだてに | 行候、諸方首尾候之間、自他御本 | およぶべく候、しょほうしゅび候のあいだ、じたごほんい | 意不可有程候、是非無御退屈御 | ほどあるべからず候、ぜひごたいくつなくご | 籌策肝要候、猶以御備之時宜 | ちゅうさくかんように候、なおもっておそなえのじぎ | 爲可承、追而申入候、恐惶謹言、 | うけたまわるべきため、おってもうしいれ候、きょうこうきんげん、 | | (天正元年) | 二月廿六日 長政(花押) | 勝興寺 | 御同宿中 |
(鴨川達夫) |