顕如消息(石山退城等をつぐ)

顕如消息(石山退城等をつぐ)


顕如消息(石山退城等をつぐ)(けんにょしょうそく)     [目録を見る]   [ 宝物解説へ ]
 本願寺第11世・顕如(1543~92)が大坂を退去して雑賀(和歌山市)に移ったことを、越中に報せた文書である。かなりの長文だが、4つの段落に分けることができる。
 まず第一段では、大坂退去については子息の教如(1558~1614)も了解済みであると述べ、飛んで第三段では、それにも関わらず教如が「不慮之企」を起こし、顕如は既に隠居したと触れ回っていることは、甚だ不当であるとしている。「不慮之企」とは、教如が大坂に留まって信長への抵抗を続けようとしたことを指している。
 第二段は大坂退去を決断した理由の説明であり、抵抗を続ければ「有岡」(荒木村重)や「三木」(別所長治)のように滅ぼされてしまう、「法流断絶」を避けるためには退去するしかなかった、と述べている。
 第四段では、自分は開山聖人の影像を奉じて雑賀に移ったから、諸国の門徒は今後は雑賀に参詣に来るように、と求めている。これは勿論、大坂の教如には従うな、という意味であろう。
 以上のように、この文書は一つには大坂退去の決断への理解を求めたものであり、もう一つには教如への同調を戒めるものであったと言える。なお、同日付けで同内容の文書が、能登・美濃・近江など各地の坊主・門徒にも届けられている。これらを比較すると、第三段まではほぼ同文であるのに対し、第四段にはそれぞれかなりの個性がみられる。文書を調製する際、第三段までについては共通の雛型があったものと思われる。第四段については右筆の判断に委ねられたのであろう。

(鴨川達夫)


 (ウワ書)
 「越中 坊主衆中へ
          顯如
     門徒衆中へ 」
 態染筆候、仍信長公与和平之わざとふでをそめ候、よってのぶながこうとわへいの
 儀、爲 禁裏被仰出、互之ぎ、きんりとしておおせいだされ、たがいの
 旨趣種々及其沙汰候キ、彼ししゅしゅじゅそのさたにおよび候き、かの
 憤大坂退出之儀ニ相極候間、いきどおりおおさかたいしゅつのぎにあいきわまり候あいだ、
 此段新門主令直談候、其後このだんしんもんしゅにじきだんせしめ候、そののち
 禁裏へ進上之墨付ニも被加きんりへしんじょうのすみつきにもはんぎょうを
 判形候、此和平之儀者、大坂并くわえられ候、このわへいのぎは、おおさかならびに
 出城所々、其外兵庫・尼崎之拘でじろしょしょ、そのほかひょうご・あまがさきのかかえ
 樣、兵糧・玉薬以下、此已來之よう、ひょうろう・たまぐすりいか、これいらいの
 儀不及了簡候、中國衆之儀、ぎりょうけんにおよばず候、ちゅうごくしゅうのぎ、
 岩屋・兵庫・尼崎引退歸國候、いわや・ひょうご・あまがさきをひきのききこく候、
 今ハ宇喜多別心之条、海いまはうきたべっしんのじょう、かい
 陸之行不可相叶由候、欤たとヘハりくのてだてあいかなうべからざるのよしに候、たとえば 
 當年中之儀者可相拘、とうねんちゅうのぎはあいかかうべきか、
 乍方敵多人数取詰、長さりながらてきたにんずうとりつめ、なが
 陣以後者、扱之儀も不可成候、じんいごは、あつかいのぎもなるべからず候、
 然時ハ有岡・三木同前ニ可しかるときはありおか・みきどうぜんになりゆく
 成行事眼前候、忽べきことがんぜんに候、たちまち
 開山尊像をハしめ悉相果かいさんのそんぞうをはじめことごとくあいはて
 候ハヽ、可爲法流断絶事歎候はば、ほうりゅうだんぜつたるべきことなげき
 入計候、就其加思案、叡慮へいるばかりに候、それにつきしあんをくわえ、えいりょへ
 御請申候、如此相濟候以後、新おうけもうし候、かくのごとくあいすみ候ていご、しん
 門主不慮之企、併いたつらもんしゅふりょのくわだて、しかしながらいたずら
 者のいひなしニ同心せられ、もののいいなしにどうしんせられ、
 剰恣之訴訟中々過法候、あまつさえほしいままのそしょう、なかなかほうにすぎ候、
 將又予令隠居云々、世務等はたまたよいんきょせしむとうんぬん、せむなど
 更無其儀候、佛法相續之さらにそのぎなく候、ぶっぽうそうぞくの
 儀、猶以不及其沙汰候處、諸ぎ、なおもってそのさたにおよばず候ところ、しょ
 國門下へ申ふるゝ趣、言語こくもんかへもうしふるるおもむき、ごんご
 道斷虚言共ニ候、所詮どうだんのそらごとどもに候、しょせん
 開山影像守申、去十日至かいさんのえいぞうをまもりもうし、さるとおかきしゅう
 紀州雑賀下向候間、此以來さいかにいたりげこう候あいだ、これいらい
 諸國門徒之輩、遠近ニよらすしょこくもんとのともがら、えんきんによらず
 難路をしのきても、なんろをしのぎても、
 開山聖人御座所へ参詣をかいさんせいじんのござしょへさんけいを
 いたさるへき事、可爲報謝候、いたさるべきこと、ほうしゃたるべく候、
 就中老少不定の人間のなかんづくろうしょうふじょうのにんげんの
 ならひなれは、一日も片時もならいなれば、いちにちもかたときも
 いそき/\雑行雜修をいそぎいそぎざつぎょうざっしゅを
 すてゝ、一心に弥陀佛すてて、いっしんにみだぶつ
 をたのミ申候人々ハ、必をたのみもうし候ひとびとは、かならず
 極樂に往生すへき事、ごくらくにおうじょうすべきこと、
 ゆめ/\疑あるましく候、ゆめゆめうたがいあるまじく候、
 此上にハ佛恩報盡のこのうえにはぶつおんほうじんの
 ために念佛申され候へく候、ためにねんぶつもうされ候べく候、
 相構て/\無由斷法あいかまえてあいかまえてゆだんなきほう
 義能々たしなミぎよくよくたしなみ
 肝要にて候、猶刑部卿法眼・かんようにて候、なおぎょうぶきょうほうげん・
 少進法橋可申候也、穴賢々々、しょうしんほっきょうもうすべく候なり、あなかしこあなかしこ、
    (天正八年)
   卯月十五日 顯如(花押)
    越中國
       坊主衆中へ
       門徒衆中へ

(鴨川達夫)