豊臣秀吉禁制

豊臣秀吉禁制


豊臣秀吉禁制(とよとみひでよしきんぜい)     [目録を見る]   [ 宝物解説へ ]
 天正12年(1584)の小牧・長久手合戦を経て、旧織田勢でまだ羽柴秀吉に臣従しなかったのは徳川家康と佐々成政(1539~88)だけであった。翌年8月、秀吉は越中に入り富山城の成政を降参させるが、先立つ7月時点で「古国府寺内」への諸軍勢乱入などを禁じている。当時在京した勝興寺第10代住職・顕幸(1555~1604)が秀吉方に与し、秀吉を先導して越中へ下向したことを背景として、安全保障文言になった。だが同時に、勝興寺・一向一揆衆に佐々方への参陣を禁じたとも言える。前年末に佐々方に取り込まれていた勝興寺下坊主衆は、秀吉禁制の受け入れにより秀吉・前田方に与した。

(久保尚文)


(羽柴秀吉)
(朱印)
   禁制 越中國古國府寺内きんぜいえっちゅうこくふるこふじない
 一、軍勢甲乙人等乱妨狼藉事、ぐんぜいこうおつにんとうらんぼうろうぜきのこと、
 一、放火事、ほうくわのこと、
 一、對地下人、相懸非分族事、じげにんにたいし、ひぶんあいかくるやからのこと、
   右條々堅令停止訖、若違犯みぎのじょうじょうかたくちょうじせしめおわんぬ、もしいはんの
   輩有之者、速可處嚴やからこれあらば、すみやかにげんくわに
   科者也、しょすべきものなり、
    天正十三年七月 日

(佐伯安一)