(五)勝興寺の近代文書

 今度の調査では概ね明治五年(一八七二)以後を「近代」とし、成立年代不明(年未詳)文書でも形態・記載内容等から明治時代以後の成立と思われる文書は「近代」に含め、「宗教行政」、「本願寺・勝興寺」、「寺族」に大別し、以下のように分類した。
 「宗教行政」は、国・県・市町村の布達・法令あるいは公文書・簿冊等を分類した。三一一(四〇件)、三一二富山県・市町村(一〇〇件)、三一三宗教行政一般(九八件)。宗教行政関係は計二三八件である。
 「勝興寺」は、勝興寺の寺内関係のものだけではなく、近世的な触頭制度は解体していることから、本山(本願寺)関係の文書もこれに含め分類した。三二一由緒(七四件)、三二二本山(二一六件)、三二三末寺(三九点)、三二四門徒(八九件)、三二五法要・行事(二八三件)、三二六勝興寺一般(六七四件)、三二七造営(二一六件)。勝興寺関係は計一五九一件である。
 「寺族」は、住職家関係の文書を三三〇寺族として分類し、計三七四件である。
 近代文書のなかでとりわけ注目されるのが、明治二七年~三五年(一八九四~一九〇二)にかけての由緒関係文書で、勝興寺(殊勝誓願興行寺)の開基と伝える信念、すなわち順徳天皇第三皇子彦成王墓所の所在に関する調査に関する一連の文書(三二一-九・一一~四〇・四三・六二~六三)である。また明治三三年(一九〇〇)、同四二年(一九〇二)には東京大学から勝興寺に対し古文書が返却されており、勝興寺文書が比較的早い時期から史料として注目されていたことが知られる(三二一-四一四四)。
 また勝興寺が近世を通して越中国真宗西方の触頭を務めたが、明治一一年(一八七八)七月、本山から慰労金が授与されている(三二二-二七)ことも興味深い。
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