秀吉は、天正十三年(一五八五)七月、勝興寺に禁制を発し(〇〇〇-二五)、越中出陣と勝興寺の保護の意思を明示し、佐々成政を下した後の天正十三年(一五八五)閏八月には、越中の瑞泉寺・専福寺・聞名寺などの有力諸寺院に対して禁制を発し(『富山県史』史料編Ⅲ近世上)、統一政権として諸寺院を保護すべき意思を表したが、この時勝興寺に対しては、新領主利長から禁制が発せられた(〇〇〇-二九)。それは秀吉が諸寺院に発したものとは記載内容が若干異なる。秀吉のものは、「軍勢甲乙人等乱妨狼藉」・「放火」・「対寺内町人不謂儀申懸」の三項を禁ずるもので、この時期の秀吉禁制の普通の文言であるが、利長のものは、「寺内陣取免許」・「寺内奉公人出入」・「竹木伐採」・「非分之儀申懸族」の四か条を禁ずるとともに、市立て許可を指示するものであり、新領主としての寺内定の性格を有するものである。
勝興寺顕幸佐廉は、天正十四年(一五八六)八月、正親町天皇から口宣案を下賜された(〇〇〇-三〇)。佐廉は、天正三年(一五七五)に権律師に任ずる口宣案を下賜されており(〇〇〇-一四)、この度のものは、権大僧都に任ずるものであるが、これは、永禄三年(一五六〇)、院家に列した勝興寺の格式に基づくものであり(『増補改訂本願寺史』第一巻)、勝興寺の再興によって、同寺の中世以来の格式が復活したものといえよう。
天正十六年(一五八八)十月、前田利長は勝興寺に対し、寺内近所に百俵(五十石)の寺領を寄進したが(〇〇〇-三八)、それは、北陸の真宗寺院として他に例のない院家に列せられているという格式を持つ勝興寺を、領主として維持・保護することが領主の義務と観念されていたことによるであろう。
慶長二年(一五九六)、前田利長は、急峻風烈を理由に、守山城から富山城に移徙した。その後には、前田長種が城代として入城した。長種は、神保氏張がそうであったように、勝興寺の管理をゆだねられたとみられる。同年十月、長種は勝興寺に「覚」五か条を下し(〇〇〇-六一)、道場綿上納、京都広間番、追放坊主の摘発、屋敷地子免除を申し渡したのに合わせて、国中坊主が勝興寺の触に従うことを求めた。これは、越中真宗寺院の中での勝興寺の指揮権を規定したものであり、実質的に、後の触頭の原初と見ていいものである。
その外、利長の勝興寺宛書状が多数残っている。勝興寺が利長に種々の献上をしていおり、その礼状が多いことが特徴である。