(三)勝興寺と前田利常

 こうした前田氏の勝興寺保護と真宗寺院統制における特別の位置付与は、三代前田利常にも継承された。前田利常は、大坂の陣の直前に亡くなった利長の後を受けて、名実ともに前田家の当主となったが、元和四年(一六一九)十二月、利常は、勝興寺に二十五石を加増寄付した(〇〇〇-九四)。これは、元和四年、古国府で検地を実施したが、その際打ち出した出分二十五石を加増分として寄進したのである。その際、利常も勝興寺に対して「掟」三か条を発し(〇〇〇-九五)、寺内竹木伐採禁止、奉公人立入・非分申懸け禁止、諸役免除を申し渡している。
 慶安二年(一六四九)二月、利常は、養女であり勝興寺十四代良昌の夫人となったおつる(神谷直治娘)に対して、けわい田(化粧料)二百石を給与している(〇〇〇-一〇三)。このおつるは、養女とはいいながら、前田家と勝興寺の間の初めての婚姻関係を担ったものであり、勝興寺は前田家においては、大名家もしくは重臣家と同等の位置を与えられたことを意味する。
 慶安期で今一つ目を引くのは、越中領国内におけるキリシタン禁制に果たした役割である。慶安二年三月、井波瑞泉寺・八尾聞名寺が連署して、配下門徒のキリシタン改めの帳を作成提出する旨の請書を提出している(〇〇〇-一〇四)。「光昌院様(勝興寺良昌)御意之通」と勝興寺の指示に従ってものであることを述べるとともに、「右中納言様御意之旨勝興寺様被仰付候間」とあり、利常の要請によったものであるとしているところから見て、勝興寺は、越中真宗門徒のキリシタン改めを行う頂点に立っていたことがわかる。すなわち、勝興寺は、前田氏越中領国統治の一翼を担って諸寺院を指揮する位置と役割を担ったものといえよう。これは、形成されて間もない加賀藩触頭制の具体的な姿を示すものである。
 この後、加賀藩領では、改作法と呼ばれる藩政改革が実施され、新たな知行割が行われ、所付状が発せられて、それぞれの村付けも行われた。勝興寺にも承応三年(一六五四)の寺領所付状が残っている(〇〇〇-一一一)。この所付状で注目されるのは、勝興寺領が二百石になっていることである。これに対応した寺領寄進状は残っておらず、いつの時点で二百石になったかは不明である。村付けは、氷見庄矢田村に九十一石余で免五ツ、同庄古府村で七十五石に免五ツとあり、高合計百六十六石余で年貢が八十三石余となっている。これは、約四〇%の年貢が実現できるように仕組まれた平均免での年貢収納であり、一般の加賀藩士と同様の措置である。とすれば、勝興寺は、独自の寺領支配を行ったわけではなく、一般の加賀藩士同様、年貢徴収権は藩が掌握していた可能性が大きい。ここからも、勝興寺が加賀藩重臣並みの位置を与えられていたことを確認でき、ここに、勝興寺近世化の際だった姿を見ることができるのである。

(見瀬 和雄)