勝興寺略年表

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No 和暦 西暦 勝興寺略年表事項 関連 備考
1 承久三年5月 1221/5 承久の乱が起こる。鎌倉幕府討滅の企図が破れ、七月、順徳上皇は佐渡へ配流となる。
関連事項】: 真野御陵(火葬塚)上皇逝去の翌日、真野山で火葬、遺骨は京都の大原陵に収められたが、地元では火葬所を陵として崇敬し、真輪寺と国分寺で守護してきた、明治七年(一八七四)から政府が管理している。
2 嘉禄元年 1225 この年、上皇は親鸞の高弟正全房の教説を喜び、一宇を建立し殊勝誓願興行寺と名づける。
3 嘉禄元年 1225 同じ年、上皇の第三皇子彦成王、比叡山座主慈円大僧正を師として出家得度、法号成尊。
4 貞永元年 1232 慈円没後七年を経たこの年春、成尊は比叡山を出て親鸞の弟子となる。法号善空房信念。
5 仁治三年9月12日 1242/9/12 順徳上皇没。善空房信念は佐渡へ赴き、勅願所殊勝誓願興行寺開基と定まる。
6 弘安九年3月22日 1286/3/22 信念(順徳上皇第三皇子)佐渡国雑太郡竹田村(現真野町)の自坊で没する(六八歳)。 ※佐渡勝興寺は、雑太郡竹田村御堂坂(阿弥陀堂が残る)にあったが、羽茂郡小布勢村西三川金山笹川に移った同寺が衰微し越中の土山が法燈を継いだのち、寺跡に正覚坊を建てた。同寺はいま照覚寺と称し小木町にある。
歴代住持】: 開基信念没
7 徳治二年7月19日 1307/7/19 信興(開基信念の子)没する。
歴代住持】: 第二世信興没
8 正和四年7月27日 1315/7/27 信浄(第三世了信の子)没する。
歴代住持】: 第四世信浄没(早世)
9 元亨二年4月21日 1322/4/21 了信(第二世信興の弟)没する。
歴代住持】: 第三世了信没
10 嘉暦元年11月29日 1326/11/29 信源(第三世了信の子)没する。
歴代住持】: 第五世信源没(早世)
11 嘉吉二年 1442 越中国利波郡井波瑞泉寺住持如乗(蓮如叔父)が加賀国河北郡二俣に本泉寺を創建する。
歴代住持】: 歴代住持の代数は、土山御坊開創以後の住持代数に佐渡の殊勝誓願興行寺時代の代数五を加えて記す。
関連事項】: 蓮如十男実悟が記した『蓮如上人塵拾鈔』その他同時代の記録では、土山坊の開基を勝如尼とし土山・高木場両坊とも同尼の所有としている。蓮如は文明七年の吉崎退去までしばしば二俣を訪れ、勝如尼が住む土山坊へも訪れていたことであろう。本泉寺や土山の万兵衛屋敷跡には蓮如作の庭が残り、蓮如は蓮誓を深く信頼していた。こうした事情の中から土山御坊蓮如開基説が生まれてきたのではなかろうか。
12 康正三年6月 1457/6 蓮如が本願寺派八代宗主となる。
13 寛正元年1月 1460/1 如乗没し、室の勝如尼は薙髪得度し、本泉寺・瑞泉寺兼帯の住持代となる。
14 寛正六年 1465 蓮如二男蓮乗が本泉寺に婿養子として入寺し、本泉寺・瑞泉寺の兼帯住持となる。
15 寛正六年 1465 勝如尼は諸方に布教し加賀国で松尾寺、越中国蟹谷荘で土山坊を開き、土山に居住する。
16 文明三年7月 1471/7 蓮如が越前国の吉崎に坊舎を建てる(吉崎御坊)。※勝興寺の寺伝や系譜は、同寺の前身土山坊の開基は蓮如で、創建を文明三年とする。
17 文明五年 1473 本泉寺・瑞泉寺兼帯住持蓮乗は、土山御坊住持をも兼ねることになる。
18 文明十一年 1479 蓮乗が健康を害し、勝如尼と蓮乗の望みで、蓮如四男の蓮誓が土山御坊に入る。
19 文明十三年 1481 春 福光城主石黒光義が加賀国の富樫政親に党し、越中門徒衆を攻めて敗死する。
20 文明十三年 1481 戦後、蓮誓は般若野荘中田村に徳成寺(中田御坊)を創建し、教線を広げる。
関連事項】: 中田御坊は元禄六年(一六九三)、中田村御旅屋設置の際、瀧村に替地千三百六十坪を与えられ、当山の瀧村通坊となった(現運源寺)。
21 文明十七年 1485 この年頃、蓮誓は土山坊の寺基を露深き土山から交通に便な同荘高木場(高窪)へ移す。
22 文明十八年 1486 当年すでに蓮誓は加賀国江沼郡山田の光教寺住持で、蓮誓次男の実玄が高木場へ移った土山坊を継いでいることを『塵拾鈔』は記す。明応三年の高木場移転説は成立しない。
23 明応四年8月2日 1495/8/2 土山坊の実質的開基であり、土山坊・高木場坊所有者の本泉寺勝如尼が没する(六八歳)。
歴代住持】: 第六世勝如尼没
24 明応八年3月25日 1499/3/25 本願寺派八代宗主蓮如、山科本願寺で没する(八五歳)。 解説
歴代住持】: (寺伝第六世蓮如没)
25 永正元年2月21日 1504/2/21 二俣から同国同郡の若松に移った本泉寺で籠居中の蓮乗が没する(五九歳)。 解説
歴代住持】: 第七世蓮乗没
26 永正十四年7月 1517/7 本願寺が佐渡で衰頽した殊勝誓願興行寺を土山坊に継承再興させることとする。
27 永正十六年2月 1519/2 二月(九月ともいう)高木場の勝興寺が国人の争乱で炎上、安養寺村末友へ寺基を移す。
28 永正十六年11月 1519/11 十一月十日付で本願寺から安養寺の御坊へ送られてきた「親鸞聖人伝絵」(当山蔵)の裏に、現存史料中初見の「勝興寺」の寺号が認められる。 解説
29 大永元年8月7日 1521/8/7 加賀国江沼郡山田の光教寺で蓮誓が没する(六七歳)。 解説
歴代住持】: 第八世蓮誓没
30 享禄四年 1531 「百姓の持ちたる国」となり全国の諸大名を震撼させた加賀で、門徒一揆や一国の支配権をめぐり、本願寺側と、加賀三か寺側とが争った「享禄の錯乱」(大小一揆)で、勝興寺は大一揆、本願寺側につき勝利した。勝興寺九世実玄はその室妙勝をとおし、本願寺派十代証如と密接な関係をつくり、証如が最も信頼を寄せる寺となった。反面、加賀三か寺の松岡寺・光教寺・本泉寺は没落した。 解説
関連事項】: 実玄の室妙勝は蓮如六男蓮淳の娘であり、蓮淳は証如の外祖父として絶大な発言力をもっていた。
31 天文五年1月 1536/1 年始の賀志として勝興寺実玄夫妻と子息が証如に二五〇疋を献じている(善徳寺は五〇疋)。
32 天文十四年3月15日 1545/3/15 実玄は安養寺村の自坊勝興寺で没する(六七歳)。母は前大納言持委息女。 解説
歴代住持】: 第九世実玄没
33 永禄二年12月 1559/12 本願寺派十一代宗主顕如が勅許で門跡となる。
関連事項】: 勝興寺十世顕栄室は室町幕府管領細川晴元養女、実父は西三条大納言実隆の五人娘の一人である。五人の姉妹は、細川晴元の室、本願寺顕如室、武田信玄室、朝倉義景室、勝興寺顕栄室となり、期せずして反織田信長同盟関係を形成していた。
34 永禄三年 1560 門跡の近侍として勝興寺など八か寺に院家を勅許。当山は本願寺教団で北陸代表寺院の地位を得る。
35 永禄十一年7月 1568/7 武田信玄が勝興寺・瑞泉寺などに椎名康胤を援け、上杉輝虎の背後をうかがわせる。 解説
36 元亀元年9月 1570/9 石山本願寺顕如が織田信長に対抗する門徒一揆挙兵を呼びかけ、勝興寺・瑞泉寺は、石山本願寺へ兵を送り防戦につとめる。
37 元亀三年9月 1572/9 上杉謙信が越中門徒一揆の本拠安養寺村の勝興寺を覆滅させる。
38 元亀三年10月 1572/10 武田信玄が勝興寺に書を送り富山落城を惜しみ、出兵遅延を釈明する。 解説
39 元亀四年2月 1573/2 近江の浅井長政が勝興寺に対し、武田信玄と協議せず謙信と和議せぬよう書を送る。 解説
40 天正五年2月 1577/2 勝興寺が上杉謙信に歳首を賀し、謙信が答謝している。
41 天正五年12月 1577/12 上杉謙信の部将名の中に越中の神保氏張、石黒左近、勝興寺・瑞泉寺が見える。
42 天正八年4月 1580/4 石山本願寺顕如が織田信長と和し紀伊雑賀へ移った旨を勝興寺に知らせる。 解説1
解説2
43 天正八年5月 1580/5 顕如長子教如が信長への抵抗継続に門徒一揆を奮起させるよう勝興寺へ来信するとともに、六月には使者をつかわし、重ねて抵抗継続を呼びかける。 解説
44 天正九年4月 1581/4 四月(六月ともいう)石山を退去し紀伊鷺森に赴いた顕如に従っている当山顕栄の留守中、佐々成政方についた木舟城主石黒左近将監道之は安養寺の勝興寺を、また成政の部将前野小兵衛は井波瑞泉寺を急襲し、両寺伽藍は灰燼となる。
45 天正十二年4月 1584/4 羽柴秀吉が勝興寺・瑞泉寺に門徒一揆の結集と一味を条件に還住を保証する。
46 天正十二年11月 1584/11 佐々成政が勝興寺に還住を許し、守山城主神保氏張が射水郡古国府の分一円を当山に寄進し、国中の諸坊主に草坊建立その他諸事につき協力を命ずる。 解説1
解説2
解説3
47 天正十二年12月1日 1584/12/1 顕栄が和泉貝塚で頓死(七六歳)、四日同地で本願寺一家衆列して葬儀を執行する。 解説
歴代住持】: 『真宗資料集成三』所収、顕如宗主右筆「宇野主水日記」では、天正十二年十二月一日を第十世顕栄没とし、近世末の記録「勝興寺御由緒抜書」では、没年を天正八年十二月二日としている。
48 天正十三年7月 1585/7 羽柴秀吉が在京中の勝興寺十一世顕幸に古国府寺内保護の禁制を与える。 解説
49 天正十三年8月 1585/8 佐々成政が羽柴秀吉に降伏する。
50 天正十三年閏8月 1585/8 前田利勝(以下利長と記す)が古国府勝興寺に禁制を与え保護を保証する。 解説
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