文書名
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武田信玄書状
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文書名(カナ)
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たけだしんげんしょじょう
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文書名(ローマ字)
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別名
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別名(カナ)
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別名(ローマ字)
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文書名(欧文)
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文書名に関する注記
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差出・作成者
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差出・作成者(カナ)
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差出・作成者(ローマ字)
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宛所
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勝興寺
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宛所(カナ)
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宛所(ローマ字)
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書写者
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書写者(カナ)
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書写者(ローマ字)
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作成年
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(永禄一一年)七月一六日
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作成年終
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数量
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1点
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形状
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掛幅
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寸法
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寸法(縦)
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14.8cm
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寸法(横)
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53.2cm
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材質
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形態に関する注記
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掛幅装
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保存状況
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縮尺
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その他の注記
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言語
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日本語
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ISBN
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ISSN
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主題
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主題(カナ)
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主題(ローマ字)
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関連する地域・場所
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関連する地域・場所(カナ)
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関連する地域・場所(ローマ字)
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関連する人物・団体
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関連する人物・団体(カナ)
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関連する人物・団体(ローマ字)
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内容年
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内容年終
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内容
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内容(カナ)
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内容(ローマ字)
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解題・説明
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武田信玄(晴信/1521~73)は、東国を代表する戦国武将の一人として名高い。甲斐を本拠とし、信濃・上野・駿河にも版図を広げた。越後の上杉謙信(輝虎)を好敵手としたことはよく知られているが、勝興寺・瑞泉寺など越中の本願寺系寺院にとっても、謙信は警戒すべき危険な存在であった。このため、本願寺第11世・顕如(1543~92)を含めた三者の間に、謙信に対抗する目的でのやり取りがしばしば行われた。 本史料はその一例で、永禄11年7月に信玄が勝興寺第9代住職・顕栄(1509~84)に届けた書状である。信玄の記すところによれば、これに先立って越中の情勢に変化があり、金山(かなやま)(魚津市)の椎名康胤(しいなやすたね)が反上杉の立場を明らかにして、顕如・信玄に誼を通じてきたという。これを受けて、信玄は大坂の顕如に玄東斎(げんとうさい)(日向宗立)を、金山の康胤には長延寺(ちょうえんじ)(師慶)を急派し、今後の戦略を協議せんとした。そのことを顕栄に報せて、長延寺と接触するように求めたのが、この書状である。 玄東斎や長延寺、さらに文末に見える八重森(やえもり)(家昌)は、いずれも武田氏の外交を担った実務家である。とりわけ長延寺は、越中との関わりが深く、信玄や顕如の指示を受けて活動した。信玄が本願寺に届けた書状の中に、本史料と同じ7月16日付けで、ようやく康胤が行動を起こした、ついては越中にいる長延寺に然るべき指示を与えてやって欲しい、と述べたものがある(村田家文書〈広島県〉)。日付の点でも内容の点でも、まさに本史料と同時に書かれたものであろう。大坂に派遣された玄東斎が、これを携えていったものと思われる。 なお、文末に近い部分では、越後の本庄繁長(ほんじょうしげなが)がやはり反上杉の立場を明らかにしたが、これに呼応して近々北進するつもりである、と述べている。信玄はその通りに行動したらしく、8月中旬、上杉側が飯山(長野県)付近に厳戒態勢を敷いたことが知られている。ただし、上杉側では信玄の真意を見破っており、繁長に調子を合わせただけでさして本気ではあるまい、などと述べている(「歴代古案」巻4)。(鴨川達夫)
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解題・説明(英語)
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来歴
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来歴(英語)
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所蔵機関
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勝興寺
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原資料の所在地
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勝興寺
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資料番号
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『勝興寺宝物展』図録番号:79、『勝興寺文書目録』箱No.県-〇一一
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管理記号
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カテゴリ区分
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文書・記録
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資料種別
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文書
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資料分類(大分類)
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宝物
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資料分類(中分類)
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文書
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資料分類(小分類)
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文化財情報
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富山県指定文化財
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manifest.jsonへのURL
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参照データ
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関連ページURL
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宝物作品解説
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関連画像URL
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自治体史掲載
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出版物・関連資料
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『勝興寺宝物展 重要文化財勝興寺本堂落慶記念』(勝興寺ほか 2005)
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翻訳元の言語
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権利関係・利用条件
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原資料の利用条件
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権利関係・利用条件に関する注記
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緯度・経度・高度に関する注記
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DOI
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既刊目録名
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『雲龍山勝興寺文書目録』(勝興寺文化財保存・活用事業団 2012)
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デジタル化の経緯に関する注記
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