曹洞宗大本山總持寺/デジタルアーカイブ

曹洞宗大本山總持寺 本山全景

著作『伝光録』について

『伝光録』は、大乗寺(現石川県金沢市)の住持をつとめていた瑩山紹瑾禅師(1264~1325)が弟子たちに向けて行った講義を、侍者が聞き書きしたものです。講義は正安2年(1300)、瑩山禅師が数え年で37歳の時に開始されました。

『伝光録』のテーマは、日本の曹洞宗に連なるインド・中国・日本の仏祖たちの悟りです。仏祖たちが師匠のもとで、どのような修行を経て悟りに至ったのか、その経緯を明らかにするとともに、その悟りをどのように理解すべきかについて詳述しています。

そして、『伝光録』において取り上げられる仏祖は、道元禅師(1200~1253)の『正法眼蔵』「仏祖」巻に、その名が記されています。ここから『伝光録』という書名の意義が明らかとなります。「伝光録」は「光を伝えた人々の記録」と読めますが、この「光」とは、道元が伝えた「正法」(仏の悟り)にほかなりません。したがって、『伝光録』は「正法を伝えた人々の悟りの記録」という意味であることが知られます。

道元禅師の『正法眼蔵』は、「正法」すなわち仏の悟りについて論じた書です。いっぽう、瑩山禅師の『伝光録』は「正法」の歴史的な伝承過程に目が向けられています。これらを大学の講義に例えるなら、『正法眼蔵』は「仏教思想」、『伝光録』は「仏教史」となるでしょう。つまり、『正法眼蔵』に説かれる「思想」と『伝光録』に説かれる「歴史」の双方を学ぶことで、「曹洞宗の思想と歴史」が初めて明らかになります。このように見ると、瑩山は『正法眼蔵』の補遺編として『伝光録』の講義を行ったと理解して差し支えありません。

現在の曹洞宗では『正法眼蔵』と『伝光録』が根本宗典に位置づけられていますが、学術的な観点から見ても、きわめて有意義であることが知られます。

『伝光録』は安政4年(1857)に初めて出版されるまで、ながらく書写によって伝承されてきました。現在までに、33本の写本が確認されています。本サイトでは、それらの中から、資料的価値の高い写本の一部をデジタル化するとともに、書写地(現在の所蔵地と書写地が異なる場合もあります)をマッピングし、広く公開するものです。

(文:横山龍顯)


「伝光録」を所蔵している寺院

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  • 總持寺本

    瑩山和尚傳光録巻之一
    内題 瑩山和尚伝光録
    外題 伝光録
    書写年代 不詳
    書写者 不詳
    書写地
    所蔵寺院
    冊数 5冊(巻之一巻之二巻之三巻之四巻之五
    解題 本写本は松下圭道氏の旧蔵本で、現在は鶴見の總持寺に所蔵されている。書写者や書写年次は不明ながら、第5冊末尾に「題号訂誤」と「旧本錯簡」の2種が書写されていることから、兀山南極が明和4年(1767)に書写した永昌院本の系統に属することが明白である。「題号訂誤」は、永昌院本の親本となった總持寺(現在の總持寺祖院)の秘庫に所蔵されていた写本に記載されていた内題「紹瑾大和尚住能州洞谷山永光寺語録」は、表題としてふさわしくないことを指摘する。「旧本錯簡」は、こちらも親本に存在した錯簡を指摘し、修正したことを記すものである。「題号訂誤」と「旧本錯簡」は、總持寺本のほか、東隆眞氏所蔵本・松源寺本の巻末にも見える。「旧本錯簡」の指摘により、古形を保持する本文に生じていた錯簡は修正され、元文への復帰が果たされた。錯簡が修正された本文を有する写本は、乾坤院本をはじめとする古形を保持した写本群と、可睡斎本や仏洲仙英開版本などの流布本群との中間的な位置にある。
  • 乾坤院本(名古屋市博物館寄託保管)

    紹瑾大和尚住能州洞谷山永光寺語録 徧
    内題 紹瑾大和尚住能州洞谷山永光寺語録
    外題 伝光録
    書写年代 1450年代
    書写者 芝岡宗田(?~1500)など3名
    書写地
    所蔵寺院
    冊数 2冊(
    解題 現存最古の『伝光録』写本。書写は15世紀後半までくだるが、その本文は14世紀後半、すなわち『伝光録』が伝播を始めて間もない時代の古形を保持していると考えられる。古形を保持した本文『伝光録』写本には、もれなく錯簡が生じているが、乾坤院本にも複数の錯簡が確認される。本写本の書写年代は、乾坤院所蔵『正法眼蔵』写本と同一の筆跡が見出されることから、『正法眼蔵』の書写が行われた1450年代と比定されている。また、現在は2冊にまとめられているが、これは後代の修訂において5冊本を2冊にまとめなおしたものである。乾坤院本全文の翻刻として、東隆眞校注『乾坤院本伝光録』(隣人社、1970年)および『瑩山禅師 伝光録―諸本の翻刻と比較(1)~(9)―』(鶴見大学仏教文化研究所共同研究成果報告書、2015年~2023年)がある。本写本の全訳はいまだ上梓されていないが、部分的な訳注として、田島柏堂『瑩山』(日本の禅語録第5巻、講談社、1978年)、鈴木哲雄『乾坤院本伝光録(東土篇)研究』(山喜房仏書林、2015年)がある。
  • 龍門寺本(石川県七尾美術館寄託保管)

    紹瑾大禅師住能州洞谷山永光寺語録 巻一
    内題 紹瑾大禅師住能州洞谷山永光寺語録
    外題 伝光録(第2冊以降)
    書写年代 天文16年(1547)
    書写者 哲囱芳賢(喆囱とも、?~ca. 1566)など
    書写地
    所蔵寺院
    冊数 5冊(巻一巻二巻三巻四巻五
    解題 龍門寺本は、もともと興徳寺(現廃寺、石川県輪島市三井町)の松月斎において哲囱芳賢らが書写した写本であり、興徳寺什物であった。後、興徳寺が退転の憂き目に遭い、興徳寺の什物を龍門寺へ譲渡することが決定し、現在に至っている。本写本も乾坤院本と同じく古形を保持しているが、錯簡について見ると、乾坤院本とほぼ類同するものの、乾坤院本に生じている道元禅師章の錯簡は見られない。龍門寺本の特徴は、書写が行われた後も、複数の人々に読み継がれ、多くの書き入れが加えられている点に求められる。後代の人による書き込みは、永光寺本(龍門寺本を親本とする)が書写された正徳3年(1713)以降も継続的に行われていたと考えられ、長きにわたり、門人による参究が行われたことが知られる。龍門寺には乾坤院と同じく、『伝光録』と同時期に書写された『正法眼蔵』写本も所蔵されている。さらに、『伝光録』『正法眼蔵』と同じ箱に収納される『正法眼蔵仏祖悟則』は、『伝光録』の成立過程を知るうえで、きわめて貴重な資料である。龍門寺本は、『瑩山禅師 伝光録―諸本の翻刻と比較(1)~(9)―』(鶴見大学仏教文化研究所共同研究成果報告書、2015年~2023年)に全文が翻刻されている。
  • 永光寺本

    紹瑾大禅師住能州洞谷山永光寺語録 巻之一
    内題 紹瑾大禅師住能州洞谷山永光寺語録
    外題 伝光録
    書写年代 正徳3年(1713)
    書写者 雪渓安宅(?~1716)
    書写地
    所蔵寺院
    冊数 5冊(巻之一巻之二巻之三巻之四巻之五
    解題 本写本は龍門寺本を親本として書写された写本である。それは、龍門寺本における後代の書き入れの多くが、永光寺本の本文として採用されていることから知られる。ただ、龍門寺では和文の語序となっている箇所が永光寺本では漢文の語序へ変更されるなど、書写者である雪渓自身による修訂も多く見出される。本写本の全文は、『瑩山禅師 伝光録―諸本の翻刻と比較(1)~(9)―』(鶴見大学仏教文化研究所共同研究成果報告書、2015年~2023年)に翻刻されている。
  • 長円寺本(西尾市岩瀬文庫寄託保管)

    紹瑾大和尚住能州洞谷山永光寺語録 一巻
    内題 紹瑾大和尚住能州洞谷山永光寺語録
    外題 伝光録
    書写年代 寛永14年(1637)
    書写者 暉堂宋恵(1587~1650)
    書写地
    所蔵寺院
    冊数 5冊(一巻二巻三巻四巻五巻
    解題 暉堂宋恵が本光寺(愛知県幸田町)住持の時に書写した写本。その後、暉堂の長円寺転住に伴って、長円寺の所蔵となったと考えられる。長円寺本は乾坤院本に近似した本文を有する写本である。とくに錯簡は乾坤院本と完全に一致する。ただし、乾坤院本を直接の親本とするわけではない。乾坤院本の脱字・脱文が長円寺本では脱落していない場合があるため、乾坤院本の欠を補ううえで有意義な写本であるといえよう。書写者の暉堂宋恵は寛永21年(1644)に『正法眼蔵随聞記』も書写している。
    なお、長円寺本『伝光録』が書写された 本光寺は、享禄元年(1528)に深溝(ふこうず)松平家の菩提寺として愛知県幸田町深溝に開創されたが、天正18年(1590)以降、松平家の領地替えに伴って寺も移転を繰り返した。慶長6年(1601)に深溝に戻ったが、同17年(1612)に愛知県豊橋市に移転する際に、同地に本光寺を新たに創建しつつ、深溝の本光寺の寺名を源光寺に改め、存続することとなった。長円寺本『伝光録』が書写されたのは、寛永9年(1632)から慶安2年(1649)までの、愛知県刈谷市所在時代である。しかし、正確な所在地は明らかではない。最終的には、寛文9年(1669)に長崎県島原市に移転しつつ、それ以降に源光寺の寺名を本光寺に戻し、現在に至っている。よって、長円寺本『伝光録』が書写された本光寺は、現在は島原に所在する。なお長円寺 と深溝の本光寺は、共に島原の本光寺の末寺である。
  • 天林寺本

    紹瑾大和尚住能州洞谷山永光寺語録
    内題 紹瑾大和尚住能州洞谷山永光寺語録
    外題 伝光録 全
    書写年代 元禄9年(1696)頃
    書写者 楊堂厳策(?~1712)
    書写地
    所蔵寺院
    冊数 合綴1冊(
    解題 天林寺13世の楊堂厳策が元禄9年頃に書写した写本。もとは5冊本として書写していたものを、後に「天林寺由緒記」などの寺院文書と合綴し、現在は1冊本となっている。天林寺本の本文は龍門寺本と近い関係にある。龍門寺本は、後代に加筆された塗抹や上書きなどのために、書写当初の本文が判読不能となっている箇所が少なくないが、それらの箇所は天林寺本を参照することで、復元することができる。
  • 松山寺本

    紹瑾大和尚住能州洞谷山永光寺語録 上
    内題 紹瑾大和尚住能州洞谷山永光寺語録
    外題 瑩山和尚洞谷録
    書写年代 慶長4年(1599)~寛永4年(1627)の間
    書写者 融山泉祝(?~1627)
    書写地
    所蔵寺院
    冊数 2冊(
    解題 本写本には、正徳4年(1714)に松山寺9世の経山海典が撰述した奥書が残されており、この奥書から書写者が松山寺開山の融山泉祝であったことが知られ、書写が行われた期間についても、松山寺開創から融山の示寂に至る間と比定し得る。本写本は1丁ごとに生成り料紙と装飾料紙が交互に用いられているが、これは数ある『伝光録』写本のうち、松山寺本のみに見られる特色である。『伝光録』は全5冊で書写される写本が多いが、本写本は2冊によって構成されており、松山寺本と同じ本文系統に属する写本は、2冊または4冊構成の写本が多くなっている。松山寺の本文には、乾坤院本に見られる道元禅師章の錯簡を修正しようと試みた痕跡が見出され、ここから乾坤院本と非常に近い本文系統に属することが知られる。また、乾坤院本とは異なる本文系統の写本と校合を行った形跡も見出され、『伝光録』の本文成立過程を考察するうえで、きわめて貴重な情報を提供してくれる。松山寺本全文の影印として、鶴見大学仏教文化研究所編『太祖瑩山禅師七〇〇回大遠忌記念 松山寺所蔵『伝光録』影印』(鶴見大学、2024年)がある。
  • 可睡斎本

    瑩山和尚伝光録
    内題 瑩山和尚伝光録
    外題 瑩山和尚伝光録
    書写年代 弘化2年(1845)
    書写者 知賢(生卒年不詳)
    書写地
    所蔵寺院
    冊数 存3冊
    解題 本写本は全4冊であったと推定されるが、現在第1冊を欠く端本である。奥書から、智賢なる僧侶が金剛山峰山寺(長野県伊那市高遠町)において書写した写本であることが知られるが、その後、いかなる経緯を経て可睡斎に所蔵されるようになったのかは不明である。本写本の本文は、安政4年(1857)に仏洲仙英が開版した『伝光録』版本の本文と共通する点が多いことが報告されている。ただし、仙英の版本と異なる点も数多く見出されるため、両者にはそれなりの距離があると見るべきであろう。また、18世紀以降に書写が行われた『伝光録』写本は、錯簡がすべて修正される傾向にあるものの、本写本では婆須盤頭章と摩拏羅章の錯簡が修正されていない。本写本の成立過程については不明点が多く、今後の研究が俟たれる。

(各本解題:横山龍顯)