鈴鹿市は、鈴鹿郡と河芸郡の2つの町と12の村(鈴鹿郡国府村・庄野村・高津瀬村・牧田村・石薬師村、河芸郡白子町・神戸町・稲生村・飯野村・河曲村・一ノ宮村・箕田村・玉垣村・若松村)が合併し、昭和17(1942)年12月1日に誕生した、三重県で7番目の市である。
鈴鹿郡・河芸郡の2つの郡に及ぶ14もの町村がアジア・太平洋戦争のさなかに合併し、新たに鈴鹿市が誕生した背景には、以下の三つの大きな要因があった。
一つは、明治時代の町村合併である市制・町村制の施行から50周年にあたる昭和12年を契機に、鈴鹿・河芸郡下の各町村で高まった新たな町村合併の動きである。白子町は稲生村と玉垣村、神戸町は飯野村と河曲村(その後は玉垣・若松・箕田・一ノ宮の各村も参加)と、それぞれ独自に新しい都市を計画した。一方、鈴鹿郡下の国府・庄野・石薬師・高津瀬・牧田の各村では「鈴鹿町」の構想が具体化していたのである。
二つは、鈴鹿郡・河芸郡の行政区画に分れながらも歴史的な沿革を背景に政治・文化・消費経済などの生活全般にわたり「一体的関係」を形成していたこれらの町村において、四日市市を中心とする伊勢湾臨海工業地帯の確立とその躍進に刺激を受け、「面目を一新」して新たな「都市的発展」を遂げる機運が高まっていたことである。
三つは、鈴鹿海軍航空隊の設置に始まる「国家的重要大施設」の実現による地域の形態の激変と人口の激増に対する「綜合的施設計画」を樹立せよという「国家喫緊ノ要請」に対応した「近代都市」づくりが、緊急の課題とされたことである。
当該地域には、昭和13年3月に白子町に設置された鈴鹿海軍航空隊をはじめとする海軍関連施設、鈴鹿川左岸台地に進出した陸軍諸部隊の関連施設、明野陸軍飛行学校北伊勢分教所である北伊勢陸軍飛行場、三菱航空機と三菱造船が合併して誕生した三菱重工業の関連工場など、陸海軍関連施設や軍需工場が数多く建設・計画されていた(地図参照)。
こうした陸海軍関連施設や軍需工場による地域の形態の激変と人口の激増に対応する「綜合的施設計画」の樹立が、国家から要請された。なかでも、国府・牧田・飯野・庄野の各村に及ぶ広大な施設を有する鈴鹿海軍工廠の建設においては、関係町村や海軍関連施設との連携の必要性から、「陸海軍関連施設と一体化した新しい都市構想」が、鈴鹿海軍工廠建設主任内田亮之輔海軍大佐を中心に計画され、陸海軍省・関係町村・三重県・内務省の連絡・調整を経て具体化した。そして、「国家喫緊ノ要請」に応じ「地方永遠ノ暢達」を図るため、関係町村が「大同団結」し「名実共ニ備ハレル近代都市」の建設がめざされた(昭和17年度『市史資料(市制施行時の町村概要)』)。
一つの母体を中心とし隣接の町村を合併して市制をひくことを原則とした従来の新市の誕生方式とは異なり、軍事面を重視した総合的な施設を計画するという国家的な観点から、各町村の対立を解消した「大同団結」にもとづく新しい市の建設が急がれたのである。
鈴鹿市はこれらの3つの要因により誕生した「近代都市」である。鈴鹿海軍工廠に代表される陸海軍関連施設や軍需工場による地域の形態の激変と人口の激増に対する「綜合的施設計画」の樹立という「国家喫緊ノ要請」に対して、関係する14の町村が「大同団結」して応えた結果が、「近代都市」すなわち「軍都」鈴鹿市として結実したのである。
「軍都」鈴鹿市の誕生を物語るように、鈴鹿市が誕生した12月1日付け『伊勢新聞』は、「鈴鹿市けふ発足 喜び溢れる五万市民」の見出しのもと「全国にその例を見ない特異性をもち国家的な大いなる使命を鈴鹿市はけふ一日の佳き日、五万市民あげて喜びにみちみつ裡(うち)に力強くも逞しい呱々(ここ)の声を高らかにあげた」「国土計画に基づく綜合施設の経営に、清新強力なる自治体の確立に、さては産業、文化、交通の向上発展にその担う使命は余りにも大きい」と報道した。
鈴鹿市はその後、昭和18年に鈴鹿海軍工廠・亀山陸軍病院、昭和20年に陸軍本土決戦用の椿秘匿飛行場と陸海軍関連施設が相次いで建設されるなど「名実共ニ備ハレル近代都市」、まさに「軍都」としての歴史を刻むことになる。