以上のことから、鈴鹿市の戦中・戦後史は、「軍都」から「平和産業」都市への転換の歴史であるといえよう。こうした鈴鹿市の戦中・戦後史を、やがて鈴鹿市を担う小学校児童はどのように学んでいるのだろうか。
鈴鹿市教育委員会は、小学校3・4年生用社会科副読本として、『のびゆく鈴鹿市』を発行している。『のびゆく鈴鹿市』は、昭和46(1971)年4月に初版が発行されて以来、現在使用されている『のびゆく鈴鹿市』第6次改訂版まで、5回にわたり改訂が行われている。
現在使用されている「のびゆく鈴鹿市」編集委員会編『のびゆく鈴鹿市』第6次改訂版(第2版、鈴鹿市教育委員会、平成24年3月)のなかで、鈴鹿市の戦中・戦後史は、「人びとのくらしのうつりかわり」という単元のなかの「戦争があったころの鈴鹿市」と「校長先生が子どものころ」の2つの小単元において、それぞれ以下のように記述されている。
戦争があったころの鈴鹿市
はるかさんの学級では、みんなが聞き取ってきたことをもとに、戦争があったころの鈴鹿市のようすについてまとめてみました。
はるかさんのノート
戦争があったころの鈴鹿市は、軍隊の大きなしせつがあったそうです。
食べ物がとても少なく、子どもたちはいつもおなかをすかせていました。
学校の運動場もほとんど畑になっていて、勉強よりも訓練や作業の方が多かったそうです。戦争に行く兵隊さんを駅まで見送りに行くこともありました。
空しゅうけいほうがなるとすぐ下校になりました。
おとなりの津市や四日市市が空しゅうで焼け野原になったと聞くと、鈴鹿市はだいじょうぶかと、とてもこわかったそうです。
この文章とあわせ「登校の時の服そう」「すもう大会のようす」「兵隊さんを見送る子どもたち」「軍の飛行場への遠足」の4枚の写真が掲載されている。
校長先生が子どものころ
校長先生の話
鈴鹿市でも鉄道や道路が整びされ始めて、車もふえてきました。軍のしせつがあった広い土地には大きな工場がたてられました。
また、日本で初めての国さいレース場がかんせいしたんだよ。そうやってだんだん発てんしてきたんだね。
伊勢湾台風などのひ害を受けたこともあったけど、みんながんばってきたんだよ。
この文章とあわせ「軍のしせつのあと地に建てられた工場」「鈴鹿サーキットレーシングコース」「伊勢湾台風のひ害のようす」(1959年)の3枚の写真が掲載されている。
(『のびゆく鈴鹿市』第六次改訂版、平成24年3月)
鈴鹿市の戦中・戦後史は、「戦争があったころの鈴鹿市は、軍隊の大きなしせつがあったそうです」「軍のしせつがあった広い土地には大きな工場がたてられました」という表現で記述されている。この記述は、平成14年3月に発行された『のびゆく鈴鹿市』第5次改訂版を引き継ぐものである。
では、昭和46年3月に初めて発行された鈴鹿市教育委員会・鈴鹿市教育研究会編『のびゆく鈴鹿市』において、鈴鹿市の戦中・戦後史はどのように記述されているのだろうか。
(三)工場ができて
工業のまちへ おとうさんが子どものころ、日本の国はせんそう(昭和十六年から二十年)をしていました。今の平田野や玉垣のあたりには、ひこうき・てっぽう・たまなどを作る大きな工場(軍じゅ工場)がありました。
鈴鹿市が生まれたのもこのころで、その工場ではたらく人々のじゅうたくもたくさんつくられました。人や車のいききも多くなってきました。せんそうがはげしくなるにつれ、ひこう場も大きくなり、道路も新しくつくられました。
かわってきた鈴鹿市の工業 せんそうが終わって、ひこう場や軍じゅ工場のあとに新しく大きな工場ができてきました。
昭和二十六年ごろから、おり物や糸を作る工場が、玉垣・平田野・白子のあたりにできてきました。このほかコンクリート工場(加佐登駅のあたり)・自動車やオートバイをつくる工場(平田町)や電気きぐをつくる工場(玉垣)もできました。なかでも、自動車やオートバイをつくる工場ができる(昭和三十五年)と、その近くには部品をつくる下うけ工場がたくさんできてきました。
このように、鈴鹿市には、昭和二十六年から十年ぐらいの間に、大きな工場がつぎつぎにできたのです。
この文章とあわせ「軍じゅ工場」の写真と「平田野あたりの工場」の地図が掲載されている。
現在使用されている『のびゆく鈴鹿市』の記述と比較したとき、「鈴鹿市が生まれたころもこのころで」、「ひこう場や軍じゅ工場ののあとに新しく大きな工場ができた」たなどの表現で、鈴鹿市の戦中・戦後史がくわしく記述されていることがわかる。終戦から25年という時期は、戦争と復興の記憶は鈴鹿市域のいたる所に残っていたことがうかがえる。
『のびゆく鈴鹿市』において、鈴鹿市の戦中・戦後史が最も詳しく記述されているのは、昭和55年3月に発行された第3次改訂版で、以下のように記述されている。
(三)せんそうのころ
今から五十年ほどまえ、日本の国は、中国・アメリカなどの国とはげしいせんそうをしました。
今の平田・玉垣・旭が丘あたりには、広い土地がたくさんあり、交通もべんりだったので、ひこうき・てっぽう・たまなどを作る大きな工場(軍じゅ工場)やひこう場がつくられました。
遠くからこの工場にはたらきに来ている人のしゅくしゃが、あちらこちらにたっていました。女の人もたくさんはたらきに来ていたようです。近くの農家の人や中学生たちもはたらいていました。
せんそうがはげしくなるにつれ、ひこう場もおおきくなり、道路も新しくつくられました。
そのころは、ほとんどの家が農業をしていましたが、取れた米は、国へ出さなくてはならなかったので、ごはんがじゅうぶん食べられませんでした。ごはんのかわりに、いもやこなで作ったものを食べました。おもに家で作ったやさいを食べ、魚や肉はほとんど食べられませんでした。
そのころのようすを、わたしのおばさんはつぎにように話をしてくれました。
おばさんの話
「わたしが小学生のころ、日本の国はアメリカとせんそうをしました。着るものや食べるものがだんだん少なくなり、おかあさんの着物でもんぺを作ってもらって、学校へはいて行きました。おとうさんには、夜、わらぞうりを作ってもらいました。
せんそうがはげしくなってくると、ばくだんのひびきでわれないように学校中のまどガラスに紙をはりました。また、「くうしゅう」になると、すぐに勉強をやめて急いで家へ帰らなければなりませんでした。そうして、家の近くにほってあった「ぼうくうごう」に入って、びくびくしながら「かいじょ」になるのをまちました。
とうとう「くうしゅう」がはげしくなったので、村のクラブ(今の公民館)へ、つくえやいすを運んで、せまくて暗いところで勉強をすることになりました。この中には、名古屋や大阪から、しんせきの家へ「そかい」してきた子もいました。
おとうさんは、平田町にあった海軍工しょうへ、はたらきに行っていました。同じ村からは、むかしの高等科や中学校のせいとも工場まで歩いて行っていました。おかあさんは、一人で米やさつまいもを作らなければなりませんでした。だから、わたしは、学校から帰ると、弟や妹の子守りをしたり、むぎやなたねの取り入れを手つだったりしました。
せんそうが、もっとはげしくなってくると、肉・魚やおかしなどがほとんどなくなり、いつもおなかをすかしていました。しまいには、だいじな運動場にもさつまいもをつくらなければなりませんでした。
食べ物のくろうは、せんそうが終わってからもだんだんきびしくなりました。」
(四)工場ができて
せんそうが終わって、軍じゅ工場やひこう場のあとに新しく大きな工場ができてきました(地図)。昭和二十七年ごろから、軍じゅ工場のあとには、サラン糸・毛糸・オートバイや自動車をつくる工場ができてきました。また、ひこう場のあとには、おり物・電気器具などをつくる工場もできました。なかでも昭和三十五年に、オートバイや自動車をつくる工場ができると、その近くには部品をつくるきょうりょく工場がたくさんできました。
このように、鈴鹿市には、昭和二十七年ごろから十年ぐらいの間に、大きな工場がつぎつぎにできてきたのです。
「おばさんの話」という証言を活用しながら、軍需工場ができた経緯、戦時下の食生活、勤労奉仕・学徒動員、疎開、軍需工場の転換など、戦中・戦後史が詳しく記述されている。
以上、3種類の『のびゆく鈴鹿市』を比較したとき、『のびゆく鈴鹿市』における鈴鹿市の戦中・戦後史の記述は、しだいに減少していることわかる。このことは、鈴鹿市域における戦争の記憶が次第に風化つつあることを物語る。