はじめに

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 太平洋戦争中の昭和18(1943)年6月から20(1945)年8月の終戦まで、三重県鈴鹿市に鈴鹿海軍工廠(以下、鈴鹿工廠)という海軍直営の航空機銃・弾薬包(注記1)専門工場があった。この鈴鹿工廠の設置決定をうけ、鈴鹿・河芸両郡にまたがって農業を主要産業とする2町12村は工廠を核にして合併し、昭和17(1942)年12月1日に鈴鹿市となった。昭和13(1938)年の国家総動員法成立後、円滑な戦争遂行のために地方自治は変容し、軍事的要請を背景とした市制施行が相次いだが、なかでも鈴鹿市は、特に海軍の要請による急ごしらえの「軍都」であった(注記2)。

 市制施行の契機となった鈴鹿工廠については、戦時下の開庁で稼働期間わずか2年余であったこと、終戦直後に関係書類が徹底的に処分されたことなどからまとまった資料に乏しい。そのなかで同工廠の建設主任であった内田亮之輔海軍大佐が記した『鈴鹿市の生いたち』(注記3)、および戦後、第二復員局によって作成された『引渡目録』等(防衛研究所図書館史料室所蔵)をもとにこれまで考証が進められてきた(注記4)。しかし、前者は鈴鹿工廠建設時、後者は終戦時の情報が主であるため情報に偏りがあり、稼働当時の鈴鹿工廠については不明な部分が多い(注記5)。

 そこで本稿では、前記以外の防衛研究所図書館史料室所蔵資料をはじめ、鈴鹿海軍工廠長であった齋尾慶勝技術中将の「齋尾慶勝資料」(鳥取県立公文書館蔵)などを分析対象に加えることで、鈴鹿工廠の運営状況と内包していた課題を明らかにし、鈴鹿市と鈴鹿工廠との関係を考察していく上での基礎情報を提供したい。