鈴鹿工廠火工部で製造された機銃弾薬包は、品質面でも問題を抱えていた。同廠火工部員・箱島勝の回想によれば、十三粍曳跟弾の光跡は本来一直線であるべきなのに、「抜き取り検査の試験発射で、光の尾が急に右や左や上に曲ったり、途中で消えて見えないのが出た」としている(注記36)。箱島は、昭和19年11月、鈴鹿工廠において十三粍機銃弾薬包の多量生産を確立するために横須賀工廠造兵部から設備とともに異動してきた短期現役技術士官であった。結局、異常光跡の原因は終戦まで解明されなかったが、「遂には神頼みとばかり工場や機械のお祓い」まで行っていた(注記37)。
同じく火工部検査課第一領収班に在籍した百々由起夫(鈴鹿工廠見習工員養成所二期生)は、回想記に、「とくに昭和二十年に入ると材質低下から、薬莢の不良品が続出した。筒発(銃身内での爆発)も多く、私が担当していた信管・雷管の不良品も同様だった。雷管の場合、落下測定試験で、一定の確率で合格となる。だが現実にその確率をこえても(略)合格品として納入していたのだ」(注記38)と綴っている。粗悪品が生産されても、検査を素通りしてそのまま部隊へ供給されていたのである。なお、太平洋戦争末期における粗悪な弾薬包の流通は、鈴鹿工廠に限らず全国的なものであったようで、航空本部第三部の「月頭報国資料」(20年6月)にも、「不良弾薬包ニ依ル事故頻発」のため、関係各部において質的向上の手段を講じつつあったことが記されている(注記39)。
そもそも主生産品であった二式十三粍機銃弾薬包は、機銃本体同様にかなりの難物であった。第一海軍技術廠支廠火工部は、兵器採用後の同弾薬包について、「曳跟通常弾、焼夷通常弾ヲ生産セシモ早発膅発(銃身内での爆発、筆者註)頻発シ、此ノ対策トシテ材料ノ吟味、信管ノ改計画ヲ実施セシモ尚之ノ事故ヲ完全ニ防止シ得ルニ至ラズ。薬莢ノ機銃薬室内破損モ絶無ハ期シ得ルニ至ラズ、(略)膅圧ハ高ク弾速ハ規定ヨリ少ナキ現状ニアリ」(注記40)と記録している。模倣・国産化された量産品は事故が頻発し、弾速もオリジナルの域に達していなかった。
このように鈴鹿工廠火工部は、工作機械不足、要員の問題等のため、工廠計画時に想定した効率的な多量生産が望めない環境にあり、材料不足、工場疎開など様々な阻害要因が加わったことで、「(弾丸)被甲の白銅は丹銅になり、弾心の削りは雑になり」(注記41)、粗悪な製品が生産される悪循環に陥ったまま終戦の日を迎えたものと思われる。