4 工場疎開・分工場設置

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 昭和19年11月、マリアナ諸島のサイパン基地やテニアン基地などから飛来するアメリカ軍B-29爆撃機の日本本土爆撃が本格化すると、全国各地の兵器生産施設では、その生産力を空襲被害から守るため工場疎開が始まった。鈴鹿工廠においても工場を地下施設化する地下疎開と地上での分散疎開が昭和19年から20年にかけて行われ(注記42)、鈴鹿郡関町観音寺山にはトンネル(隧道)式の関分工場、岐阜県高山市の江名子地区・中山地区・斐太中学校等に高山分工場を設置し、三重県立神部中学校を神中分工場としてそれぞれ一部操業を開始していた。このほか松阪市の三重県立松阪工業学校を松阪分工場とし、石川県大聖寺町にも大聖寺分工場を設置し、疎開工場として稼働させるべく準備中であった。前出の火工部所属・百々由紀夫によれば、「(20年、筆者註)六月に入ると廠内の建物はいっせいに取り壊された。信管や雷管の検査もとぎれがち、毎日、防空壕掘りと弾丸、薬莢工場の取り壊し」で、「疎開、分散さわぎにあけくれた」という状況であった(注記43)。

 地下施設化を図り、昭和20年4月1日に開設披露式をしたとされる関分工場は(注記44)、齋尾工廠長の回想によれば、トンネル縦断面積を東海道線の複線規格と同等とし、「東海道複線と同じ形状のもので長さ約130mのもの32本計画。終戦までに機械を据付て作業始めたもの3本、外に堀方完了のもの5本、その他は工事中」であった(注記45)。岐阜県の高山分工場は、「城山(高山城跡地、筆者註)下に数本のトンネルを掘ったが一本だけ貫通した。空襲を避けるため郊外の森林の中にバラックを建て、工員300人が就業していた」という(注記46)。終戦直後の20年10月18日、鈴鹿工廠総務部長奥田増蔵大佐から艦政本部総務部長宛の建築目録・機械目録に含まれた「内容一覧表」では、高山分工場の生産能力(月産)は、二式十三粍機銃部品(全部品ではない)800挺分、銃身200挺、二式十三粍弾丸3万発と報告されている(注記47)。また、「鈴鹿の本庁地下にも相当多数の長いトンネルを掘り、材料等の倉庫にあて」ていた(注記48)。

 疎開による能力低下は2割以内で止めるというのが軍当局の要求だったとされるが、『昭和産業史第1巻』によれば、鈴鹿工廠の機銃弾薬生産は地上疎開率20%で生産能力も20%減退したとされる(注記49)。結果的に鈴鹿工廠は周辺部への誤爆を除いて直接の空襲を受けなかったが(注記50)、空襲被害を回避するために実施した工場地下施設化や地上分散疎開は、生産工程の分断や資材輸送路の延長にともなう原材料・部品入手難等を招き、それまでの鈴鹿工廠が抱えていた主要生産品の技術的問題、工作機械不足、労力難、資材不足に問題を上乗せするかたちで生産力の不振に決定的悪影響を及ぼしたものと考えられる。