5 終戦状況―それぞれの8月15日―

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 工員・作業人員総数で約5万人に達していた鈴鹿工廠は(注記51)、昭和20年8月15日を迎えた。同日正午、工員は玉音放送を聞くために多くの者が工廠本工場に集められた。年少の動員学徒、女子挺身隊員、高年齢の徴用工が並んだ様は、「工廠の従業員の年齢が徐々に変化して、高齢化、年少化」(注記52)していたことを示すものであった。聞き取りづらいラジオ放送の後、8月10日付で鈴鹿工廠長から艦政本部出仕となっていた齋尾技術中将が工員らに戦争の敗北を伝えている。齋尾技術中将の三女で、20年4月から機銃部に動員されていた岡村千鶴子(当時16歳)は、その時の模様を自著とインタビューで次のように語っている。「玉音放送の後、全従業員に敗戦を説明し、皆の働きにねぎらいの言葉を述べたとき、嵐のようなざわめきが起こり、整列が乱れて号泣の波が四隅にまで拡がった」(注記53)。「それまできちんと整列していた大勢が、膝が落ちて波のように崩れるんです。私はそのほうが恐かった。私も真ん中に居るんですよ。みんな膝を突いて泣いている。私ももちろん。演説の途中でみんな泣き出したもので、父(齋尾技術中将)も泣いていましたけどね。とても暑い日でした」(注記54)。

 火工部員の箱島勝は、「あの終戦を知らされた日の早朝も、各工程の機会の下にもぐりこみ作業服を油だらけにして、(十三粍曳跟弾について、筆者註)真っ直ぐに飛んでくれよと念じつつ調整を」していた。しかし、「正午の詔勅を聞いてからは機械は止」まった(注記55)。

 試行錯誤のなか量産にかんする苦闘が続いた機銃部でも、「終戦と同時に資料は焼却され、十三ミリ旋回機銃も伊勢湾にすてられた」という(注記56)。

 昭和20年11月5日、鈴鹿工廠の諸施設は閉鎖した。10月20日から11月12日にかけて鈴鹿工廠本工場及び各分工場の関連物件は連合国軍に接収され、三重県へ移管された(注記57)。残存した設備のうち兵器製造の工作機械、特殊施設の大多数は破壊処分され、鈴鹿工廠の兵器生産設備は多くが賠償指定され、ごく一部の施設が平和的用途に転換することを許されたのみであった。いずれにしても鈴鹿工廠は、終戦をもって完全に終わりを告げたのである。