航空機銃と同弾薬包の多量生産専門工廠として設立された鈴鹿工廠は、これまで述べてきたように、組織編成上の矛盾、主要生産兵器の技術的困難性、工作機械不足、労力難、資材不足、工場疎開等、数え切れないほどの問題を重層的に抱えていたことにより、悪戦苦闘も奏功せず、計画段階で期待された兵器生産能力を発揮できないまま終戦を迎えた。同工廠ほか、戦時下設立の専門量産工廠について、元海軍技術大佐・杉岡師男は、「艦本系だけでも相模、豊川、鈴鹿、光、川棚等々の工廠が次々に創設されたが、大戦に貢献した点は、25㎜機銃関係を担当した豊川工廠に比肩するものは無かった」(注記58)と断じている。
確かに鈴鹿工廠は、前述のように生産量・生産性ともに突出した成果はなく、各軍港の4工廠や豊川工廠など他の海軍作業庁と比較した場合、海軍・戦争への影響力は低かったかも知れない。しかしそれは軍関係者からみた鈴鹿工廠の一側面に過ぎず、これをもって鈴鹿工廠全体の評価とするわけにはいかない。
鈴鹿市の視点から同工廠を見た場合、筆者は全く異なる見解を提示しなければならない。鈴鹿市にとっての鈴鹿工廠は、軍事的要請に基づく強制的なものながら、その設置決定が2町12村をまとめて市制施行をする契機となった。農業中心の土地に最先端の軍需産業を持ち込んで「軍都」を形成し、産業構造を大きく転換させた鈴鹿工廠は、地域を変革させた主体であったと言うことが出来よう。同工廠の解体とともに兵器生産関連施設・工作機械はほとんど姿を消したが、造成された広大な土地、そして当時最先端の精密機械工業に触れた経験は鈴鹿のまちに遺された。戦後、鈴鹿市は平和産業誘致に成功し、伊勢湾沿岸地域有数の工業都市として発展していく。企業進出の必要条件には、土地だけでなく、適切な人材の地元での確保が欠かせない。現在の鈴鹿に至る原動力の一つに、戦時下、海軍工廠等において生産性向上に苦心惨憺し、多くの犠牲を払いながらも積み上げられてきた鈴鹿の人々の経験があったのではないか、筆者はそう考えている。
謝辞 本稿作成にあたり、齋尾慶勝海軍技術中将にかんする資料の調査及び複写等について岡村千鶴子氏、鳥取県立公文書館総括専門員・伊藤康氏に大変お世話になった。ここに記して感謝の意を表したい。
-[注記]-
1 薬莢に弾丸部をとりつけた完成品のことを指す。実包。カートリッジ。
2 「軍都」は陸海軍が規定した用語ではない。河西英通は『せめぎあう地域と軍隊―「末端」「周縁」軍都・高田の模索』(岩波書店、2010年)の冒頭で「軍都」論を展開し、類型化を試みている。河西の論を引用すると、「軍都」とは、日本の近代化のなかで「軍事的機能を付与・強要され」た都市を指す「他称」で、「主に行政やマスコミによって普及された造語」であった。「軍都」は陸軍関係の都市が大半だが、鈴鹿市と同様に戦時下、海軍主導のもと市制が施行され「軍都」と称された都市には、佐伯海軍航空隊があった大分県佐伯市(昭和16年4月29日市制施行)、第二海軍航空廠設立後の千葉県木更津市(昭和17年11月3日市制施行)、豊川海軍工廠設立後の愛知県豊川市(昭和18年6月1日市制施行)などが挙げられる。
3 内田亮之輔、『鈴鹿市の生いたち』、鈴鹿市役所、1975年。
4 アジア歴史資料センター(防衛研究所)Ref. C08010957100『鈴鹿海軍工廠 引渡目録』、およびRef. 08011223300『「阪復」津 鈴鹿工廠 第2復員局』。
5 『鈴鹿市のあゆみ―軍都から平和都市へ―』、鈴鹿市教育委員会・鈴鹿市旧軍施設調査研究会編、2002年、および『鈴鹿市史』第3巻、鈴鹿市役所、1989年、394―399頁。『20年のあゆみ』、鈴鹿市役所、昭和37年など。
6 元海軍技術大佐・杉岡師男、『閑放縦談』(海上自衛隊幹部学校蔵)。
7 「航空・艦本間の分掌事項の件」、『日本海軍航空史(3) 制度・技術篇』、時事通信社、1969年、50-52頁。
8 『戦史叢書 海軍軍戦備(2)―開戦以後』、防衛庁防衛研修所戦史室、朝雲新聞社、1975年、372-373頁、および前掲『20年のあゆみ』、19頁。
9 前掲『鈴鹿市史 第三巻』、394-395頁、および前掲『鈴鹿市のあゆみ』、8頁。
10 齋尾慶勝、『砲熕兵器に関する回想』(防衛研究所図書館史料室所蔵)。
11 「鈴鹿工廠設立経緯」、『軍備 3/11 生産と補給』(防衛研究所図書館史料室所蔵)。
12 前掲 齋尾慶勝回想。なお、『20年のあゆみ』19頁では、工廠敷地は439万m2(145万坪)とある。初代鈴鹿工廠長・齋尾慶勝の回想によれば、鈴鹿が工廠用地候補にあがっていた昭和16年初め頃、横須賀工廠造兵部長の齋尾は、久保哲造兵大佐(のち第2代鈴鹿工廠長)と2人で機銃生産の分工場用地確保のため自動車で三浦半島を一週間調査し、現在の鎌倉市深沢に土地数千坪を買収している。しかし、建設工事に入ったところで艦政本部から水雷工場へ転換の指示が急遽下り、機銃工場計画は変更となった。分工場は昭和18年、横須賀工廠造兵部深沢分工場として開場。これは、鈴鹿への新工廠建設決定が関係したものと推察される。
13 『錢高組社史』、株式会社錢高組、1972年、62-63頁、および『近代建築史とともに歩んだ足跡―創業130周年記念誌』、株式会社北川組、2001年、85頁。
14 前掲『戦史叢書 海軍軍戦備(2)』、372-373頁、および前掲「砲熕兵器に関する回想」。
15 昭和17年9月8日、海軍武官任用令の改正により、造船・造兵・造機・水路科は技術科に統合され、造兵少将は技術少将と変更されている(昭和17年勅令第648号)。
16 前掲『戦史叢書 海軍軍戦備(2)』、373頁、
17 昭和13(1938)年7月に浦賀船渠会社から大日本兵器株式会社として独立。
18 『実験研究経過概要並ニ主要航空兵器ノ変遷 射撃部 其の一』(防衛研究所図書館史料室所蔵)。昭和18年12月、ドイツから帰国した伊号第8潜水艦でもラインメタルMG131機銃6挺が国内にもたらされている。
19 前掲『日本海軍航空史(3)』、626頁。
20 前掲『実験研究経過概要並ニ主要航空兵器ノ変遷』。
21 「第三段作戦戦備計画資料(器材関係)」、『軍備 5/11 第三段戦備』(防衛研究所図書館史料室所蔵)。
22 前掲『実験研究経過概要並ニ主要航空兵器ノ変遷』。
23 小林新太郎、「原点に還る」、『今に生きる海軍の日々―短現技術科士官の手記』、楡書房、1983年、114-116頁。
24 前掲『実験研究経過概要並ニ主要航空兵器ノ変遷』。
25 『神部高校五十年史』、三重県立神戸高等学校、1971年、110頁。
26 『機密兵器の全貌―わが軍事科学技術の真相と反省(Ⅱ)』、千藤三千造ほか、興洋社、1952年、264-266頁。元海軍技術中将・清水文雄執筆部分。
27 前掲 齋尾慶勝回想。
28 前掲『実験研究経過概要並ニ主要航空兵器ノ変遷』。
29 秋本実、『日本海軍制式機大鑑』、酣燈社、2000年。
30 前掲『日本海軍航空史(3)』、624頁。
31 『各種弾薬包要目表』(防衛研究所図書館史料室所蔵)。二式十三粍旋回銃一型の弾種は9種、通常弾、曳跟通常弾、同改一、同改二、焼夷通常弾、同改一、曳跟徹甲弾、曳跟弾、演習弾があった。
32 昭和17(1942)年に大隈鉄工所旭分工場から旭兵器製造株式会社として独立している。
33 前掲『「阪復」津 鈴鹿工廠 第2復員局』。
34 前掲 齋尾慶勝回想。
35 「鈴鹿海軍工廠火工部機械関係打合覚」(「齋尾慶勝資料」、鳥取県立公文書館所蔵)。
36 箱島勝、「十三粍曳跟弾は真っ直ぐ飛ばなかった」、『今に生きる海軍の日々―短現技術科士官の手記』、楡書房、1983年、200-207頁。箱島の担当した弾薬包が、二式十三粍機銃用なのか三式十三粍機銃用なのかは判然としない。
37 前掲 箱島勝回想。
38 百々由起夫、「知られざる『鈴鹿海軍工廠』興亡記」、『丸』45巻2号(通巻548号)、1992年、216頁。
39 『海軍航空本部所掌 航空関係諸兵器の生産・補給関係資料 昭和19~終戦まで』(防衛研究所図書館史料室所蔵)。
40 『実験研究経過概要並ニ主要航空兵器ノ変遷 弾薬包関係』、第一海軍技術廠支廠火工部(防衛研究所図書館史料室所蔵)。
41 前掲 箱島勝回想。
42 前掲『鈴鹿市史 第三巻』、398頁。
43 前掲 百々由起夫回想。
44 前掲『鈴鹿市のあゆみ』、29頁。
45 前掲 齋尾慶勝回想。
46 前掲 齋尾慶勝回想。
47 前掲『鈴鹿海軍工廠 引渡目録』。
48 前掲 齋尾慶勝回想。
49 『昭和産業史 第1巻』、東洋経済新報社、1950年、529-531頁。
50 戦後、第二復員局がまとめた戦災被害率 Extent of War Damage で、鈴鹿工廠は10%の被害率であったと報告されている。「海軍工作庁(分工場ヲ含ム)戦災被害率」、『軍備一般 第二復員局』(防衛研究所図書館資料室所蔵)。
51 前掲 齋尾慶勝回想。
52 岡村千鶴子、『昭和のひとしずく』、私家版、2009年、24頁。
53 前掲『昭和のひとしずく』、25頁。
54 2012年8月14日、岡村千鶴子氏インタビュー記録より。
55 前掲 箱島勝回想。
56 前掲 百々由起夫回想。
57 前掲『「阪復」津 鈴鹿工廠 第2復員局』。
58 前掲 杉岡師男回想。