第2次世界大戦中の昭和17年(1942)12月1日に鈴鹿市が誕生してから70年が経った。昨年12月1日には市民会館で「市制70周年記念式典」が開催され、市政功労者・団体に対する表彰などが行われた。さらに、12月5日の『広報すずか』№1377には、表彰の市政功労者・団体名の一覧とともに末松市長名の「市制施行70周年を迎えて」の挨拶文が掲載された。それによれば、「本市は軍都として誕生し、終戦後の混乱期から高度成長期へと揺れ動いた社会情勢の中において着実な進歩を遂げ、農工調和のとれた緑の生産都市として発展」し、現在では人口200,000人を超えたという。まさに鈴鹿市の70年を端的に表現したものであるが、ここに至るまでには様々な展開があった。
特に軍施設の平和的産業への転換や工場誘致策などは鈴鹿市の歴史にとって重要な意味をもち、既に『鈴鹿市史』第3巻・『20年のあゆみ』・『市制60周年記念 鈴鹿市のあゆみ―軍都から平和都市へ―』(以下、『鈴鹿市のあゆみ』という)などにかなり記述されている。今回は、それらを参考にしながら、鈴鹿市の70年を人口推移や就業者数の統計資料で工業発展の側面を概観し、高度経済成長期までの具体的な工場誘致策を市役所公文書などから見てみようと思う。ただ、紙幅の関係もあり、その一端に止まることを断っておく。