(1) 鈴鹿市誕生と工業基盤

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 鈴鹿市は、鈴鹿郡の5か村(国府・庄野・高津瀬・牧田・石薬師村)と河芸郡の2町(白子・神戸町)7か村(稲生・飯野・河曲・一ノ宮・箕田・玉垣・若松村)が合併して、昭和17年12月1日に成立した。その経緯は『鈴鹿市史』第3巻や『庄野郷土誌』などに詳しく述べられているが、12年頃から始まった白子都市計画案や神戸都市計画案、さらには鈴鹿郡内関係村の「鈴鹿町」設置案などが飛び交う中で鈴鹿市制が施行された。その背景には、大正8年(1919)の旧都市計画法の公布や同10年の郡制廃止に関する法令公布後の町村合併の動きもあった。しかし、2郡にまたがる2町12村という大規模な合併が進んだのは海軍工廠などの建設が大きく影響していたからである。海軍工廠は鈴鹿郡の国府・庄野・牧田村と河芸郡稲生村に関わり、行政体単位を越えて建設が行われた。それには広範囲での町村合併が必要で、市制の実現には海軍工廠建設主任の海軍大佐・内田亮之輔が奔走したと言われ、その活動については2代目市長・杉本龍造著の『鈴鹿市の生いたち』に詳しい。

 こうして、鈴鹿市は全国198番目、県内7番目の市となり、市域には軍施設が多く建設されていて「軍都」と呼ばれた。一方、この市制施行に関しては「一つの母体を中心に周辺の町村を合併して市制を布く事が原則とされた従来の方式を破り、国土計画に重点をおき総合的な施設経営を樹立してその将来の飛躍に備へ」るためとも言われた。当時の新聞は「類例のない新市創造 廿万工都めざして進む」と報じた(『伊勢新聞』昭和17年12月1日)。ここで注目されるのは「廿万工都」であり、さらに新聞は「本市は工業地帯の中心勢力としてこゝ数年を出でずして人口二十万を擁する一大工都たるべきことを約束され」とも記している。また、鈴鹿市成立前の17年9月28日付けで関係各町村が提出した「意見書」(『鈴鹿市のあゆみ』所収)には、「我地方ハ伊勢湾臨海工業地帯ノ確立ト其ノ躍進ノ示唆ヲ受ケ、急速ニ都市的様相ヲ整備シタルモ、最近ニ於テハ国家的重大施設ノ実現ニ依リ、一層之進展ノ歩武ヲ進ムルニ至リタル」と述べられている。

 以上のように、鈴鹿市の地域は以前から工業地帯として期待され、基盤も整備されつつあった。その基盤の上に海軍工廠などが設置されたのであり、終戦後の軍施設の平和的産業への転換は鈴鹿市の工業発展にとって、言わば必然的な施策であった。