(1) 臨時対策部設置と軍施設の転換

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 昭和20年8月15日、第2次世界大戦が終結し、鈴鹿市内に多数所在した海軍工廠などの軍施設も廃止された。これら軍施設については『鈴鹿市のあゆみ』や『三重の戦争遺跡』などに詳しい記述があり、終戦後の転換も『鈴鹿市のあゆみ』や『鈴鹿市史』第3巻に一覧表で示されている。したがって、ここでは個々の記述を省くが、昭和20年10月には食糧難の現状を打破するため第一・第二鈴鹿海軍航空基地跡の農地への転用がGHQ(連合国軍最高司令官総指令部)から許可され(『伊賀の軍事施設と戦災』)、実際に「土地改良区・暁開拓団」が開拓を始めた事例もあり(『鈴鹿市のあゆみ』)、個々の軍施設廃止や転用経緯などは不明確なところも多く、更に綿密な調査が必要であることは言うまでもない。

 終戦後の軍施設の転用に関する市の方針については、市役所に臨時対策部を置き、検討がなされた。同部は昭和21年5月3日公布・施行の鈴鹿市役所処務規程の改正により設置され、同時に臨時対策部処務規程が定められ、企画係と企業係の2係が設けられた。そのうち、企業係の分掌事務は「一国有財産第二特殊物件処理ニ関スル事項 二施設利用産業其他復興ニ関スル事項 三転換会社工場誘致及斡旋ニ関スル事項」で、文字通り軍施設の平和的産業への転換と会社工場の誘致斡旋が中心の事務であった(『昭和17~22年度資料用鈴鹿市例規集・事務2』)。

 そして、同部設置後まもない5月19日には初代奥田茂造市長の退任に伴い助役への事務引継が行われ、引継書には「臨時対策部関係」として当時の転換方針や数多くの転換工場予定会社が掲げられた(『昭和18年~21年7月引継書類綴』)。その概要は『20年のあゆみ』と『鈴鹿市のあゆみ』に紹介されているが、予定どおり進出されたものは数少なかった。たとえば、鈴鹿海軍航空基地跡のわかもと製薬(株)使用、元雁部隊病院の市営製塩工場、三菱製作所(航空機関連施設)跡地の三協油脂(株)などであった。しかし、長続きがせず、その後に別の施設が建設された。わかもと製薬(株)の後には電気通信学園が設置され、市営製塩工場の後は市立工業学校となり、三協油脂(株)の後は一時伊勢木材工業(株)が使用し、昭和26年には呉羽紡績(株)が誘致された。また、海軍工廠跡地は「日本再建ニ必要ナル中小平和産業工場街トシテ転換」される予定であったが(『同前』)、「鈴鹿蚕業の外二、三の会社が操業を開始したが、現下の金融難其の他の事情により未だ全部の転換を見るには至らない」状況で(『昭和23年事務報告』)、結局、解体資材は各種公共施設に活用され、敷地の大半は20万坪以上未墾地開墾農地として整備されることになった(『鈴鹿市史』第3巻)。

 なお、市役所の臨時対策部は設置後1年も経たない昭和22年4月16日に廃止され、企画調整課でその事務を行うことになり(『昭和17~22年度資料用鈴鹿市例規集・事務2』)、さらに同年8月27日には鈴鹿市役所分課に関する条例の公布があり、9月1日の市役所処務規程の改正により商工課商工係が「特殊物件の転換利用並に処理斡旋に関する事項、会社工場の誘致並に育成に関する事項」を分掌することとされた(『昭和17~26年度資料用鈴鹿市例規集・事務提要(条規廃書編1)』)。