昭和25年、鈴鹿市は全国的にも早い工場設置奨励条例を制定したが、ただ条例を公布して企業の進出を待つというものではなかった。前述したように、呉羽紡績(株)の誘致が条例制定の契機になり、条例で示された奨励金の交付以外にも市は様々な協力をした。それは条例案上程と同時に市議会へ提出された呉羽紡績(株)との協定書に詳しい。協定内容を要約して区分すると、工場用地取得と敷地内建物の処分、近接主要道路の舗装、工業用水の確保や排水処理、電力確保の斡旋、奨励金交付と県への要望である。これらの内容は呉羽紡績(株)の場合だけでなく、その後の工場誘致にも共通して言える。市役所公文書の『昭和25~47年既存工場誘致関係書』には、それぞれの会社と鈴鹿市長との協定書(覚書・契約書)が綴られ、立会人として市議会議長が名を連ねているものが多い。協定どおり実現されたものばかりとは限らないが、市の施策の方向がわかるので、協定書等から内容別に具体的な事例を見てみようと思う。
まず、用地取得に関して、呉羽紡績(株)の場合は工場予定地約65,000坪を坪単価100円で市が会社に譲渡する形をとった。国有地が多く含まれており、その払下げ単価が100円を超すときは超過分を市が負担し、100円未満のときは会社がその差額を市に支払う。また、敷地内に残存する建物は市が購入した後、会社が必要とする建物は無償で貸与し、不用な建物は市が撤去するという協定であった。さらに、近畿日本鉄道白子駅から工場敷地までは引込み鉄道線路があったが、その線路敷も財務局からの買収を市が斡旋の労をとることになっていた。
昭和27年は8月に海軍工廠跡地に進出した旭ダウ(株)、12月に第一鈴鹿海軍航空基地跡に進出した大東紡織(株)が鈴鹿市長と契約を締結し、これらも地価・離作料等一切を含めて1坪単価が100円であった。それに、買収地に関する地元民との間の紛争はすべて市が解決を図るものとし、敷地整備のために必要な土壌は敷地周辺部で市が無償で提供することも条件に付け加えられた。そして、31年5月には海軍工廠跡地に倉毛紡績(株)の工場が計画され、その仮契約書(本契約は32年1月で内容同じ)によれば、土地単価は300円に値上げされた。さらに34年8月の本田技研工業(株)との仮契約書では土地単価が650円となったが、工場予定地内に所在した平田野中学校敷地約6,300坪を新中学校竣工後に無償提供する旨の覚書が35年1月11日付けで取り交わされた。
なお、市内西条町に進出した敷島重布(株)の協定書は34年11月に結ばれているが、その土地単価は1坪1,000円で、同年8月の本田技研工業(株)に比べてかなり高かった。その理由として、敷島重布(株)の工場は敷地面積が約12,000坪と比較的小規模であったことや神戸駅に近い位置にあり地価評価が良いこともあるが、軍施設の転用でなく全くの民有地で、農作物補償や離作料に多くの費用を要したということも十分考えられる。それは31年8月の「倉毛紡績株式会社誘致に伴う家屋移転協定書」に「代替地参拾参坪を土地代、離作料、作物補償料を含め坪当り千五百円にて斡旋する」とあることからも言える。
また、36年8月には敷島スターチ(株)が市内南長太町地内の鈴鹿漁港近くに工場設置を計画して仮協定書を締結し、住宅用地約4,000坪を含め約23,000坪の土地取得をすることになったが、その1坪単価は作物補償・離作料・鈴鹿川用水分担金などを含め1坪単価2,350円であった。同年3月に「鈴鹿サーキット」建設計画のため仮契約したモータースポーツランド(株)(のち(株)テクニランド)に対する単価は1坪730円で、それとは大きな差がある。サーキット計画地は森林が多く土地評価が低かったことだけでなく、一部に旧海軍工廠の地下倉庫群や山手発射場があり、軍施設の転用という面もあった。こうして見てみると、軍施設からの転換は広い土地がまとまり、しかも廉価に用地取得ができたようで、鈴鹿市はそれを第一義として工業発展を図ってきたと言える。