軍事施設が多いために、住民と軍人との交流が濃厚に見られたことが、この地域の一つの特性と言えよう。代表的なものに、兵士らの「下宿」がある。
住民の家屋を将校らの宿泊施設とする場合もあるが、多く見られるのは、休日の時間を過ごす場所の提供である。多くは「下宿」と称されたが、「クラブ」との呼び方もあり、航空隊兵士らはここを訪ねることを「上陸」、あるいは「娑婆に出る」などと唱えていたようだ。特に海軍航空隊では普段は全員がハンモックで就寝するため、畳の上でのごろ寝がひとときの安らぎだったらしい。新兵を同室に迎えた古参兵の気晴らしでもあり、住民側が提供する飲食や、風呂に入ること、そして若い女性を含む家族との交流も楽しみだったのであろう。「偉いさんが中心だった」との証言もあり、特定の兵士に対する恩典だったようだが、特攻隊兵士の姿が多いのは、それだけ休日の過ごし方に配慮がなされたのだと思われる。
白子、神戸地区で部屋の多い家が選ばれたが、半ば強制的な割り当てであり、住民らは食事や酒の用意などを負担した。だが、そのなかで住民と兵士たちとの間に、様々なふれあいが生まれた。子供の頃に「下宿」に来た兵隊さんに遊んで貰ったり、異郷の地の話を聞いた経験は少なくない人が記し、またその後「下宿」家の娘と結婚に至ったり、戦後も家族ぐるみの交流が続いたこともあった。中川太郎さんの生家は白子で銭湯を営んだが、兵士たちとの風呂を通した様々な興味深い付き合いを語っている。
軍隊の上下関係を、そのまま「下宿」に持ち込む無粋な兵士も居た。白子の伊達久子さんは、「下っ端さん」に靴を磨かせている上官を見た祖母(明治11年生まれ)が、「みんな大事な日本国の男の子を預かっとんのやでな、そやで自分の靴くらい自分で磨け」と一喝し、上官も「仕方ないわ」と従ったとする。世代にもよるだろうが、受け容れた住民が若い兵士たちを教育する役割も果たしたのであろうか。
特攻隊兵士との触れ合いは、特に印象深い。やはり白子に住んでいた女性(匿名)の家では、訪れた4、5人の兵士の望みに応えて祖母が赤飯を炊く。近々出陣し、敵船に飛行機で突っ込んでいくのだと聞いた祖母は、「ほんならお前、死ぬやないかっ」と叫び、それから涙をぽろぽろこぼしながら赤飯を炊いた。京都出身の特攻隊兵士は、遺書にこの赤飯が美味しく、嬉しかったことを記し、その後両親が鈴鹿まで御礼に訪れたという。「下宿」に迎えた若い兵士たちを、家族同然に扱っていたからのことであろう。
兵士たちは、一般家庭だけではなく娯楽施設や歓楽街を目当てに、休日に市中へ遊びに繰り出した。羽多野登喜男さんによれば、江島に洋風のカフェがあり、そこには女給さんが何人も居て、「うちの兄貴らも戦争に行く前によくお酒飲みにいって、遊びに来てた兵隊さんと意気投合した」そうである。現在の鈴鹿市勤労青少年ホームの地に海軍航空隊の酒保(将校集会所・海仁館)があり、煙草やお菓子などを販売したが、食事はそこで取ることもあった。
当時の神戸には遊郭があり、料理屋や芸者さんも多く居た。日曜日になると陸軍・海軍の兵士たちが、遊び名目では都合が悪かったからか「公用」という腕章を巻いて、よく歩いていたと言う〈佐藤和夫さん〉。なお、神戸の遊郭は中学校の校長や生徒らが遊びに行くこともあったらしい〈辻󠄀正さん〉。
住民は食糧難に苦しんでいたが、軍隊では事情は違った。稲生の海軍分宿では、肉を食べ、酒に酔い、キャラメルやチョコレートなどもあり、食事の準備時には良い匂いがした〈匿名男性〉。石薬師に住んだ匿名男性の家では豚を飼っていたが、その餌として陸軍部隊の残飯を週に1、2度は貰いに行った。食糧難の時代だが、軍隊では「ようけ残飯ができましたわ」というのが実態であり、近所で2、3軒が代わる代わるに貰いに行っていたそうだ。
白子で牛を飼育されていた方は、海軍航空隊の残飯を餌としたが、出入りする業者が居て、毎日運ばれて来た残飯を買っていたという。食糧難の戦時において、日々それほどの残飯が出るというのは意外な感もあるが、「軍隊ですもん。食べ物は十分にあったんでしょうね」ということである。海軍航空隊自体が豚舎を持ち、数十頭の豚を飼っていたが、その餌も航空隊で出た残飯で賄っていた〈道家博さん〉。