2、軍事施設と学徒動員

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 中学校や高等学校、高等女学校、師範学校の在学中に軍事工場へ働きに出る学徒動員の話も多く聞くことができた。この時代に学校生活を送った人びとにとって、海軍工廠など軍事施設は、学徒動員を通して馴染みの深いものであった。なお海軍工廠のほか、千代崎の三菱航空機製作所、楠の軍事工場、塩浜の燃料廠など動員先は様々だが、学徒動員以外に、施設の職員(軍属)として、また女子挺身隊としてなど、多様な関わり方がある。

 生徒らは宿舎に強制的に入れられ、そこから工場に通うことになった。隊列を組んで鉢巻きをし、学徒動員の歌というものを歌い士気を鼓舞しながら行ったようだ〈匿名女性〉。教員は往き来を引率するが、工場内に入ることは許されなかった。ただし、神戸中学校では後に校内の武道館が工場となり(工場疎開)、それ以後は工廠に通うことなく学校で働くようにもなった。

 一日中旋盤を用いて機関銃の底や引き金、弾口などの部品、また弾を作ったのだが、機械の扱いに慣れない生徒たちが、どれほど役立ったものであろうか。学徒動員の経験を持つ少なからぬ人が「おシャカ」(不良品)について言及している。造り上げた機材を試用したところ、7、8割はおシャカだったとか、機関銃は100挺のうち2挺しか使い物にならなかった、という証言もある。機関銃の弾の不良品入れがあり、「すごい多かった」〈早川雅也さん〉という。これは、生徒たちの能力もあるが、「工場全体の問題」で「海軍工廠自体がうまいこと機能していない」〈伊藤孝さん〉という指摘は正鵠を射ているであろう。工廠には募集に応じた近隣地元住民を含め幅広い年齢階層が集まってはいたが、徴兵によって熟練工が少なく、指導体制も十分ではなかった。

 海軍工廠には、近辺だけではなく県内外の方々からも学徒として動員されていた。これまでも知られているように、石川県の小松高等女学校からなど女子学生と一緒の環境が「癒し」になったこともあったようだ。工場での作業は悲壮感もなく楽しかった、と思い出を語った方もいる。海軍工廠には総務部、医務部、会計部、機銃部、火工部などに分かれていたが、それぞれが対抗してのバレーボールの試合が行われ、勤務時間後や休憩時間などに練習して臨み、何よりの楽しみであった、との証言もあった〈山中ヒナ子さん〉。

 なお、学徒として動員される以前の小学校世代では、出征兵士の家などへの勤労奉仕や、繊維を取る目的での桑の木の皮剥きなどを体験している。