3、戦争被害

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 激しい戦火に見舞われた四日市や津に比し、鈴鹿市域は重要な軍事施設が多くあったにもかかわらず、大きな空襲からは免れていた。町場が散在し、農村地帯が広がる地形的な要因もあったであろうか。だが、四日市や津の空襲は、夜間ということもあり鈴鹿市域からもはっきりと確認でき、空が赤く染まり、「次は鈴鹿か」との恐怖を感じた市民も多かった。

 敗戦前の6月、7月に柳と算所に爆弾が落とされたが、それぞれの直接の被害を被った方から体験談を得ている。爆撃後に見物に訪れた際に大きな穴があいていたことも、多くの人の印象に残っているようだ。

 後藤道男さんは柳の家で直撃弾を受け、辛うじて助かった。また牧田地区で生まれ育った女性(匿名)は、爆撃により家族を失っている。母親が子供に乳を飲ませていた時に爆弾が落ち、破片が飛んできて3歳の子供の顔を吹き飛ばし、母親の胸を破片が突き抜け大きな穴があいた、という凄惨な様子を伝えて下さった。算所の爆撃では多くの死者が出たが、それでも住民はその場で生活を営まなければならない。小学校3年生くらいの子が10人くらいで田圃などに散乱した爆弾の破片を拾い、それを売って物を買っていたという。

 算所では人のほか牛も多数死んだらしい。当時、陸軍国土防衛隊として教育を受けていた打田智さんは、荷車を持って現場に駆け付けるが、牛の死体を荷車に乗せて軍隊に持ち帰り、味噌汁のなかに入れるなどして皆で食べた、という経験をされている。

 爆撃機による機銃掃射の恐怖を語った方も少なくない。国府の加藤久子さんは、北伊勢航空隊の事務室に勤務していたが、超低空飛行のロッキードの空襲に遭い、すんでのところで助かった。飛行機を操縦するアメリカ兵士の顔まで見え、今でも夢に見るという。

 終戦の間際、襲来したB29に日本の戦闘機が体当たりし、白子港の沖合に墜落させたことがあった。特攻隊的な闘いは、鈴鹿の地でも行われたのである。見物客はみな拍手喝采であったが、操縦していた若いパイロットは当然に即死であった。白子港には、練習機が落ちた場合に備えて200トン級の船が常に岸壁に繋がれていたが、乗員は数人だけで墜落したアメリカ兵を捕まえに行く余裕はない。そこで白子の漁師らが船を漕いで向かった。竹槍や櫂で殴り、2、3人のアメリカ兵を連れて帰る〈田原睦成さん〉。恐らく同じ時ではないかと思われるが、平野博文さんもこの様子を見ており、アメリカ兵は殺されることを覚悟している表情だったという。だが平野さんは「いくらアメリカ兵っていったって、生きとる人間を殺したらいかん」と抗議した由である。「鬼畜米英」式の宣伝がなされた状況下に、こうした人道的な反応があったことを銘記しておきたい。

 訓練中に墜落する事故も少なくなかった。白子の羽多野登喜男さんは、小学校で遊んでいた時に上空を飛ぶ輸送機の異変に気付く。飛行場に辿り着けないことを悟った輸送機は、街中への墜落を避けるため旋回して海に向かい、落ちて行った。覚悟の墜落であり、全員が死亡するが、そのなかに羽多野家に「下宿」していた馴染みの兵士が含まれており、とても悲しい思いをされた。