4、出征と見送り

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 住民に召集令状(赤紙)が届き、出征する際には、様々な思い出が生まれる。軍国教育の浸透と憲兵の巡回により、複雑な感情を表さず勇んで出征した人たちも多い。世の中の情勢から、いつか召集が掛かるとの覚悟もあったようだ。家には紅白の鳥居を建て、日の丸の寄せ書きや千人針を用意し、赤い襷を掛け、子供たちの大きな歌声などに送られて、多くの人びとが駅まで送られていった。

 だが、表に出せないとは言え、肉親たちの心情はそうしたものばかりではなかった。見送るのが辛く、裏の畑で佇んでいたり、家の角まで送るだけで駅までは同行しなかったなどの話がある〈長谷川定夫さん、白子地区在住匿名女性〉。学徒動員で寮生活を送る生徒たちは、父や兄が出征する時にでも帰省することは許されなかった。だが、20歳で教員生活を始めた谿花光子さんは、翌朝に戻るようにと言って夜に裏口からこっそりと帰したという。朝の点呼に間に合わない生徒もおり、「視学に言いつける」とひどく怒られることになったが、今生の別れになるかもわからないという判断からの、処罰を覚悟しての行為であった。だが、そうした教員生活は若い女性には重荷で、退職願いを出すことになったという。

 ある程度の覚悟はあったにせよ、戦死の報せは、残された家族には耐え難いものであったろう。ただでさえ辛い肉親の死に加え、表向き悲しむことを許されなかっただけに、その感情は内側に押し込められる。昭和4年生まれの匿名女性の話は、叔父が召集された時と、戦死の報が届いた時の衝撃を伝えている。祖母(戦死した叔父の母)の部屋から夜になるといつも、泣き声と「なんで死んだん」との言葉が聞こえてきた。戦後10年以上経ってから、戦地に見送った時の心情を叔母(戦死した叔父の妻)に聞いたところ、「もう何でもいいで、何にしがみついてでも帰ってきて」と出征する夫に伝えたという。世間で言われるような「立派に死んで来い」、などという文句は嘘だと。だが、その思いも届かず戦死してしまっても、人前では笑顔で「お国のためで名誉なこと」と言わなければならなかった、と辛い思い出を聞いている。アンケートで匿名の回答では、隣の若夫婦の家に赤紙が届き、抱き合って大泣きしていた、若い奥様が大きなおなかを抱えて一生懸命涙をこらえてご主人を見送る姿が今でも忘れられない、息子さんが出征して母親が気がおかしくなってしまい、歌いながら夜中に出歩いていた、などの悲痛な話も伝えられている。

 庄内地区の匿名女性が語って下さった母親の思い出も、辛く、そして重い。父親が召集され、まだ3、4歳の頃に遺骨になって戻って来た。井田川駅で白い布で包まれた箱を大切に抱きかかえて泣いていた母の姿を幼心に記憶し、現在も鮮明に頭に残っているそうである。そして30年近く経ってから聞いた話もある。夫を失い、子供3人を抱えた母が、何度か鉄道の線路に立ち、子供らの「もう帰ろう!」の泣き声で我に返った、とのことである。また戦後に外地からの引き揚げ者の名前を読み上げるラジオ番組を、母は10年間も飽きもせず聞き入っており、番組が終了した時に「あぁ…」と声をあげ、「希望を失ったような、でもやっと納得できたような気持ち」になったという。理不尽な死を現実のものとして受け止めるにも、その時の思い出を他人に語るにも、長い長い時間を要したのであり、その思いがいかに深かったかを感じさせる。