出征する当事者の思いはどのようなものであっただろうか。徴兵に応じる前に、わざわざ志願兵となった者も居た。麓志朗さんは昭和19年7月、中学4年生で海軍予科練習生に志願した。海軍兵学校に入るにはもう1年待たねばならず、それでは戦争が終わってしまうと考え、待ちきれなくて4年生で入ったのだという。三男坊で、親からお国のために奉公しろと言われていたことも影響したらしい。その時の思いは、生きる死ぬではなく「俺がいかなきゃ、誰が行くんだ」「俺が1発、弾を撃つ間に1秒間でも日本の国が守れるならば、2発撃ったら2秒、3発撃ったら3秒守れる」、という気持ちだった由である。長谷川定夫さんもやはり三男で、自ら予科練に志願したが、「俺が行かねば日本の国が守れないと、図々しく思っていたんやな」と当時の心境を語る。
だが、長谷川さんの先生たちのなかには、「行くな」と言う人は居た。そして注目されるのは、「下宿」に来ていた兵隊さんのなかで「日本はもう負けるんだから」と言って反対した人が居たのだという。サイパンが陥落して南方戦線が悪化した状況を知る、兵士としての判断であったのだろう。
白子地区の匿名男性(大正15年生)の経験も、これと似ている。どうせ兵隊に取られるのであれば、一日でも早く軍隊に入った方が古兵となれるために有利だと考えての志願であった(実現しなかったが、森下勝さんも同様の動機で志願した)。だが、それを知った役場勤めの叔父が親に知らせたため、兄が出征しているなかで「お前までが志願することはないだろう」と強い反対を受ける。「下宿」の下士官も、「よく志願してくる少年もいるが、全く軍隊という所を知らない」と軍隊生活の過酷さを懇々と説いたという。当時、鈴鹿での軍隊生活(海軍)は「鬼の木更津、邪の鈴鹿」と言われるほど訓練が厳しかったらしい。とまれ、これで入隊を断念することとなった。
「下宿」の兵士と住民との交流の一側面だが、軍事施設が多く、戦況や軍隊生活の実態を知る兵士が身近に居る故に、軍国教育を相対化する情報を得る機会に恵まれていたのかもしれない。
志願する気などなく、軍隊入りを避けることを考える人も居た。特に師範学校に進んだ理由として徴兵忌避を意識することがあり、親や教師もその理由を掲げて勧める者も居たようだ。辻󠄀正さんは、衛生兵である叔父から軍隊の「裏の話」を聞いており、兵隊に行きたくなくて師範学校へ行った、と証言している。これは兵役だけではなく、工場動員でも同様であった。今井惇夫さんのように、徴用されると大陸に派遣されることを恐れ、農業をするようにという親の反対を押し切り、自ら志願して軍需工場に行った人もいた。