辻󠄀正さんは三瀬谷国民学校で教員生活を送っている時期に召集令状が届き、久居連隊に入隊することになる。バサバサのコウリャン飯の洗礼を受けた夜、古兵が号令と共に起床を命じ、編上靴をチェックされる。そこに土が付いていることを咎められ、連帯責任として新兵同士で殴り合うことを命じられた。戦友の情で手を抜いた辻󠄀さんは、古兵から尾錠の付いた革のスリッパで殴られ、以後しばらく食事も取れないほどの目に遭う。また持ち物を揃えておく(員数の確保)ため、古兵が新兵に平然と盗みを命じるなどの経験もされた。今井惇夫さんは、昭和20年の1月に軍需工場で働いている時に陸軍部隊から、召集令状(赤紙)ではなく普通の葉書で出頭命令が届く。検査の後、上官から「貴様ら、おめでとう、全員合格だ」として10か月後に再度集まるべきことを告げられる。事情の分からぬまま会社(工場)の寮に戻ると、刺身や肉、白い御飯、牛乳などの付いた特別な食事が用意されるようになっていた。休暇で帰ってきた兵士に聞くと、「それ、特攻隊なんだ」と教えてくれる。両親にも友人にも言えないまま、幸いにも終戦の日を迎えることになる。特攻隊は志願していくものとは限らず、このように選抜されることもあった。宮原熊男さんは三菱航空機青年学校を卒業し徴兵検査に合格後、軍用葉書の通知を受けて入隊し、飛行機の操縦を教える立場に就くが、様々な機能を捨てて改造した特攻機にも接することとなる。操縦訓練の場は各地を転々とするが、最後は朝鮮半島に渡って訓練を行った。
森下勝さんは昭和20年4月に久居連隊に入隊後、1週間後には行き先も分からず汽車に乗せられ、鳥羽から船で答志島に赴く。アメリカ軍の上陸に備え、海岸の岩壁に砲撃用の穴を掘ることが仕事であった。作業の過酷さもさることながら、そこで軍隊の差別的、利己主義的体質に見舞われる。小学校勤務時代の同僚の女教師から慰問の手紙が届いただけで古兵から殴られ、自分たちは新兵を働かせておいて遊んでいる。「こんな利己主義的なとこはないわ、自分だけ良かったらええの…こんなことでは戦争には勝てん」と思ったそうだ。答志の海女さんからサザエを貰って天ぷらにしたりといった地元住民との交流も興味深いが、いずれにしても充分な食事は取れなかったのだろう、終戦後に栄養失調で久居の陸軍病院に入院し、生死をさまようこととなる。宮崎仁さんは昭和19年10月に召集を受け、訓練もなしに博多から関釜連絡船で釜山に渡り、汽車で中国の洛陽に近い常熟という地に着く。戦時でもあり苦労は当然と思っていたが、二度と帰還できないとの思いも持っていた。宮崎さん自身は撃ち合いには立ち会わなかったが、終戦から1週間くらい経った頃、そうとはまだ知らなかったため、スパイの情報戦により中隊長以下30名の部隊が1名を残して全滅するという事態を目の当たりにもしている。
軍隊内では人権が無視された上下関係が築かれていたが、特に新兵たちの間では反発も強かった。真偽のほどは分からないが、森下勝さんは、憎まれていた上官が戦時に後ろから(味方から)撃たれて戦死したという話を聞いている。アンケートで匿名での回答だが、海軍航空隊において、終戦後に仕返しとして部下たちが上官を寺の境内において殺してしまった、との伝聞も寄せられた。