食糧事情は、家が農業を営むか否かで大きく異なり、農家に生まれたためさほど食べ物には困らなかったと答える方も多い。また漁村では地曳き網でイワシ漁が行われ、魚の入手は比較的たやすかった。地域差や家の職業による偏差はあるが、総じて当地は、大都会に比すれば食糧難は深刻な状況ではなかったと思われる。
とはいえやはり白米だけの御飯は貴重で、麦や芋、コウリャン、大根、大根葉などで増量した御飯やお粥、すいとんなどで腹を充たしていた。特に農家ではない家庭では、配給が滞ったために米の入手は難しく、寺家の出岡正宏さんによれば、米飯は1か月に1度くらいだった。肉や魚などタンパク質も不足し、芋の蔓もおかずにし、フスマ(麦の皮)の団子のまずさも、多くの人の記憶に残っている。
学校の校庭は耕され、サツマイモやカボチャ、麦を育てるための畑に変わっていった。食物増産のためだけでなく、航空機用の潤滑油として用いられるヒマシ油を作るためにズズボ(トウゴマの一種か)という植物の種を植えることもあった〈出岡正宏さん〉。
生徒が取ってきたイナゴを持ち寄り、学校の給食で食べたという記憶も、2人の方から寄せられている。大きな釜で茹でて乾燥させ、潰してからみそ汁に入れるのだが、時に一匹丸ごとみそ汁に浮いていることもあった〈庄内地区の匿名男性〉。鈴鹿高等女学校では、弁当は各自持参だが、学校でサツマイモやイナゴの入ったみそ汁が供された〈一ノ宮地区の匿名女性〉。
それ以外にも、川の土手でヨモギやレンゲ、ハコベを摘み、魚やタニシを捕り、山ではキノコや木の実を採取して飢えを凌いでいた。ヘビやネズミを捕まえて食べることもあったという。
漁村での漁の手伝いについても見ておこう。当時の伊勢湾ではイワシ漁の地曳き網が行われていたが、人手不足で漁師だけでは網が上がらない。そのため、百姓も手伝いに行き、イワシを3匹、5匹、時には10匹も貰ったりしておかずの足しにしていた〈一ノ宮地区の仲道隆さん〉。当時、寺家地区には4つの網元があり、戦時中でも網が上がらないほど魚が取れた。男が兵隊に取られているため、女衆が一生懸命に網を上げていたという〈出岡正宏さん〉。
こうした食糧事情のため、栄養失調で息絶えてしまう者も出た。昭和2年生まれの森季隆さんは、同期で7人くらいが栄養失調で亡くなった。伊達久子さんは、幼い弟を衰弱死で失うが、9か月が過ぎても首が据わらないままの死であった。母親も栄養が足りずに母乳が出ず、牛乳もなく、重湯や稀に入手できた練乳の薄いものを飲ませるのが精一杯だったためである。母親の悲嘆は、いかばかりだったであろうか。近藤裕子さんも2人の兄弟を栄養失調で亡くすが、生まれた子はみな、「手でも、もう骨と皮でな、細くて。こんな子、よう生きとるな」、と思うほどであったという。
厳しい状況のなか、人の心も荒んでいく。また、生きるためには道徳を説いたり、手段を選んでいるような状態ではなかった。畑の作物が盗まれるのは珍しいことではなく、小学校の校庭に植えたサツマイモの蔓ですら、苗床を盗りに来る人の見張りに、子供たちが夜中でも番をしなければならないほどであった〈佐藤和夫さん・岡本治夫さん〉。
ただ、畑の作物の盗みの多くは空腹に耐えかねた子供たちの仕業で、被害者もそれを分かっていた場合もあったようだ。玉垣地区の伊藤孝さんは、運送会社の倉庫に積んである食糧袋から漏れ出した豆を拾いに通ったが、見付かっても優しい対応だったという。昭和6年生まれの河曲地区の匿名男性も、学徒動員の寮生活時代、仲間がみな畑で芋を盗み、生でかじって空腹を充たしていた、とする。
都会からの疎開生活の厳しさはよく知られているが、鈴鹿市域は疎開者を迎える側であり、その苦労を聞くことは多くなかった。昭和8年生まれの玉垣地区在住の匿名男性は、昭和19年に東京から疎開してきて、言葉遣いや慣れない農作業の不手際を咎められるなどの「意地悪」を経験している。母親の実家で暮らしたが、食べ物の確保も含め気兼ねばかりだったという。一方、石薬師在住の匿名男性の家では、名古屋などからの疎開者を30人ほども受け入れ、庭にバラックを建てて母親が食事などの世話で苦労をされた。なお、お二人とも鈴鹿市域で暮らした朝鮮からの来従者の生活について言及している。