8、敗戦の予感

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 生活の悪化と共に、戦況が芳しくないという理解も、一部に生じていた。大本営発表により報道規制が徹底していた時期にも、情報に踊らされない冷徹な見方は住民たちの間にも存在したのである。予科練に志願したところ、「下宿」に来ていた兵士から敗戦が近いことを理由に反対されたとの話は先に見た。昭和4年生まれの匿名女性は、沖縄にアメリカ軍が上陸したとの話を、親元に来ていた将校を通して聞き、「もう止めといたらええのになぁ」と思ったという。「下宿」の兵士から情報を得られたことが、比較的正確な戦況理解につながったと言えようか。長嶋幸夫さんの父親は職業軍人ゆえに、戦争に負けるということを察していた様子だったといい、また海軍航空隊に入隊していた吉田吉文さんは、千葉県の香取航空基地の訓練期間中の昭和20年初め頃に、既に日本が負けるという噂を聞いている。軍隊組織内では、表向きはともかく、戦況の深刻さは知られていたのであろう。

 だが、軍部からの情報に頼らず、敗戦の予感を抱いていた市民は居た。名村一義さんは、「私のおじいさんはかなり早い時期から負けるって言っとった」と証言しているし、宮崎米子さんも、金銀の指輪や火鉢、や寺の釣鐘までが供出されるのを見た義父が、「そんなものいくら出しても、何の役に立つのか、戦争に勝てるか」と言っていたという。稲生の平田雄之助さんも、玉音放送の感想は「どんどん日本の軍隊が撤退していって負ける戦争だなって分かってたから、放送を聞いてもそう悔しいとは思いませんでした」としている。もちろん、60年以上経った現代からの回想であるから、当時の心境がそのまま語られているかどうかは分からないのだが、出岡正宏さんは、東京大空襲、サイパン陥落と続き、艦載機やB29が毎日飛来する状況で、「日本は戦争に負けるってことはみんなだいたい分かってたと思うんですわ。口に出しては絶対に言えなかったですけどね」と証言している。報道管制に規定され、振り回された史実と共に、こうした冷静な見方があったことも銘記しておきたい。