ポツダム宣言の受諾を告げる玉音放送は、戦争の勝利を信じる多くの国民に衝撃を与えた。興奮のあまり敗戦を受け止められず、作戦上のこととしてなおも訓練を命じる将校も居たし、戦友の死を思い「私たちが生きていて申し訳ない」という気持ちを抱く人も居た〈長谷川定夫さん〉。絶対勝つと信じ込まされていたゆえに、悲嘆に暮れるだけでなく、アメリカ軍が上陸した時に、特に女性が何をされるか分からないという強い不安にも襲われた。
だが、同時に戦争が終わった安堵感もあった。特に、灯火管制が解かれ、明るい夜が戻ったことの嬉しさは、多くの人が語っていることである。
また、敗戦の予感を抱いていたり、非人間的な軍隊生活のただ中であった場合、もっと積極的に喜びを表した人も居た。辻正さんは静岡県二俣で終戦を迎えるが、古兵の理不尽さに苦しんでいた新兵らは皆で鍋をたたいて喜び、「バンザイ」を叫んだと言う。国府の家で玉音放送を聞いた国府の匿名女性も、「終戦を知った時にはホッとしました。口では言えないですけどね。みんな心の中ではそう思ったんじゃないですかね」と述べている。
今回の事業において、聞き取り前に実施したアンケートにおける「終戦を知った時のきもち」への回答で、この点を見てみよう。この項目に回答された1072人のうち、終戦を好意的に受け止めた「嬉しかった」〈1〉を含むもの210人、「安心した」〈2〉を含むもの452人であった。重複回答もあるため、〈1〉ないし〈2〉を含む回答は約半数の530人となる。一方「悲しかった」〈3〉が337人、「腹が立った」〈4〉が103人、そして「不安になった」〈5〉が449人、「怖かった」〈6〉が217人、「その他」〈7〉が40人であった。いずれか1つのみの回答は、544人で、528人が複数の項目に丸印をしており、思いは単純ではない。「嬉しかった」「安心した」という前向きな感情と「不安になった」「怖かった」の感情を合わせ回答した人が138人居るのは容易に理解できるが、2つの前向きな感情と共に「悲しかった」「腹が立った」という一見相反する項目をあげた人も87人にのぼった。言葉ではうまく表現できない感情を抱いていたということであろう。
聞き取り原稿自体は掲載することができなかったが、終戦当時に亀山師範(三重県女子師範学校)に在籍していた方は、玉音放送に接した時の気持ちを「悔しいってことはもう別に。やらされてしとるわけやでな。とにかくお上の命令に従わなならん体制やで、何もかもな…方針に従って動くような人間にしたてられとったでな。まあ、これからどうなっていくかって予想する力もないでな」と語っている。また、三重師範学校在校中に学徒出陣し、福井の駐屯地で玉音放送を聞いた仲道隆さんは、「それほどざわめきとか悲観的な涙もなく、ただポカンとしていたように思いますね。…言いたいことがあってもみんな歯を食いしばっていい子にならざるを得ない。僕らはただ黙っていう事を聞いているだけでした」と回想している。
個人の力では抗しがたい時代の圧力のなか、踏み潰され麻痺させられた本来の人間の思考力や感性を取り戻すのは、簡単ではなかっただろう。戦争を知らない世代は、しばしば傲慢にも、「なぜ当時の人は戦争に反対しなかったのか」、との疑問を発する。だが、そのような自由な行動や意思表示が困難だっただけでなく、主体的に考える力を奪っていたのが、当時の戦時状況であった。
敗戦を挟んで日本の教育は、軍国教育から民主教育に百八十度転換した。生徒にも戸惑いはあっただろうが、教える側はこの切り替えをどう受け止めたのであろうか。20歳で高等2年女生徒の担任として学徒動員の付き添いをした谿花光子さんは、宿舎の食堂に生徒を集めて玉音放送を聞く。「頭の中が空っぽで、話す声も泣く涙も出ず、唖然とし何をしたか記憶にない」という状態だったが、次の日も学校へ出勤し、教壇に立ち、普通に授業をしたという。軍国主義の教育を受けて、それを教え、子供たちに勝つと信じさせたが、そうでなければ働けないというのが実感であっただろう。平和教育への切り替えで、子供たちにどう教えたのか、これも記憶にないそうである。
長谷川定夫さんの言葉を借りれば「ミリタリズムとデモクラシーの狭間」にあって、器用にも見事に手のひらを返したような先生も居たと聞くが、白子小学校に通っていた松田徳夫さんは、当時の校長先生が玉音放送の翌日、頭も髭も剃った丸坊主で来たことを記憶している。後になって、その先生はこれまでの教育を反省しての行為であったと知る。正しいと信じ、生徒に教えていたことが間違いだと否定され、かつその教育が取り返しのない結果をもたらしたことを自覚した時、誠実な教師ほど大きな苦しみを味わったことであろう。