10、戦後の生活と買い出し

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 鈴鹿は地域にもよるが総じて農業地域が広がり、食糧を求める都会人を迎える側であった。大阪や奈良などに通じる関西線の駅には、大きなリュックを背負い、着物などを持って米や芋を求める人で溢れ、入手した食糧を警察に摘発・没収されることを恐れて列車から落ちたり、轢かれたりする事故も発生した。亀山駅には警察の監視が厳重のため、関や下の庄などが多く利用され、そこから歩いて鈴鹿市域まで買いに来たという〈早川雅也さん〉。下の庄は「芋の庄」と呼ばれるほど買い出しの人が多かったが、着物との交換などではなく、現金での購入が多かった。また米については統制が厳しかったが、芋は警察も見逃してくれた〈宮村重光さん〉。加佐登駅も同様で、近くで暮らした瀬古義徳さんは、中学の友人から「加佐登の芋」と呼ばれたという。

 鈴鹿から都会へ食糧を売りに行く人も居た。稲生の小野照光さんは戦時中は海軍工廠で工員として勤務していたが、戦後に食糧難のなかで農業を始めた。当時は「農家は殿さんで農家さまさま」であり、大阪の鶴橋まで売りに行くと何でも売れた。ただし、途中で警察に見付かると没収されるため、窓の外へ紐で米をぶら下げた人の話を聞いている。

 軍事施設の後始末に従事した方も何人か居た。庭田秋男さんは、玉垣村への割り当てに応じて鈴鹿航空隊の跡地でアメリカ軍の使役に行き、兵器を爆破する作業を行った。そこでのアメリカ軍兵士とのやりとりも詳しく語っている。