戦時下の昭和17年12月1日、海軍工廠が円滑に機能するための必要上から河芸郡で広域的な合併が行われ、鈴鹿市が成立した。神戸国民学校の3年か4年に在籍中だった稲垣俊夫さんは、鈴鹿市誕生を記念して市内を徒歩で一周するイベントに参加した思い出を語っている。学年によって初級、中級、上級と分かれており、早朝から暗くなるまで休憩なしに歩き続けたのだというが、学校行事として独自に行われたものと思われる。町や村から市になるのは、「都会の人になった気持ちになって嬉しかったように思います」〈神戸の匿名女性〉という感想も、一般に見られたようだ。また、皆で寄附を募り、「鈴鹿市民号」という飛行機を造って国に寄附したとの証言もあった〈平田雄之助さん〉。
戦後の鈴鹿市の発展が、杉本龍造市長が主導した企業誘致に因るところが大きいことは、市民の共通認識であろう。だが、誘致の前提となる土地買収には様々な利害が絡み容易なものではなく、喜んだ人も居れば不満を残した人も居たようだ。
企業誘致の窓口は市役所の商工課であったが、山口五郎という優秀な課長が居て、日東紡績、敷島間伐、カネボウなど、多くの誘致を手掛け、成功した。昭和34年の本田技研の誘致は、既に伝説的な話として語り伝えられている(何人かの方が証言されているが、塩崎定夫『サーキット燦々』にこのエピソードが紹介されている)。犬山市との誘致合戦となったが、本田宗一郎氏が鈴鹿市に来訪した際、杉本市長の指示で豪華な接待などはせず、冷やしたタオルとお茶だけを出した。また現地を案内した際には、合図と共に四方で竿を揚げ、場所を示した。本田宗一郎氏はこの工夫に感心し、最終的に鈴鹿市に決めたのだが、竿を立てるアイデアを出したのが山口五郎氏だったという。当時、山口課長の下で働いた軸原史朗さんは、この間の仕事振りを大いなる誇りを持って語られた。鈴鹿市の戦後の発展は、軸原さんに限らず多くの市民の尽力によってなされたことはいうまでもない。