男性(大正10年生まれ、玉垣地区在住)

68 ~ 70

繰り上げ卒業後、八日市の教育隊へ

 私は、大正10年に玉垣に生まれ、旧制神戸中学校から大学高専、今の日大の工学部に進みました。玉垣から一緒に出征したのは4人いたんですが、あとの3人は戦死しています。神戸中学の同級生は82人でしたが、その内35人が戦死しているんですよ。開戦時にちょうど大学を卒業する年代でしたからね、タイミングが悪かったのね。

 私の場合は、昭和16年12月1日、大学を卒業する年に津連隊司令部で徴兵検査をうけました。甲種合格でした。12月8日には日米開戦で、大学で配属将校の大佐から心得を拝聴したことを覚えています。12月28日に繰り上げで卒業になりました。就職先がトヨタ自動車工業に決まっていましたので、翌昭和17年1月5日に入社しました。たった2週間、1月18日までトヨタ自動車に勤めまして、2月1日には八日市中部98部隊に入隊しました。大学では機械工学が専門でしたし、たった2週間だけですがトヨタ自動車に籍がありましたので、入隊後は特業を飛行機の整備から自動車の整備に変更されました。部隊の自動車のほとんどはトヨタ製でしたしね。部品が手に入りにくくなってましたので、トヨタの先輩に話をして分けてもらったりしましたよ。

 このように急激に学生生活から入隊生活へと環境が変わりましたので、落ちつく間もなく、就寝中に試験の夢を見て跳び起きたりもしました。初年兵の時は、私的制裁のない日はほとんど1日もなかったように思います。今ではその頃の苦痛は忘れてしまってね、楽しかったことばかりが思い出されますが。

 八日市町の飛行場は、大正時代に出来た飛行場やで大きなところでね、94部隊というのも一緒にありました。私が配属された98部隊は第八航空教育隊と言いまして、飛行機の整備や航空写真の撮り方や、飛行機の武装方法など初年兵教育をしていました。私は、新しい兵隊が4か月毎に入隊して来ますので、その教育を行っていました。しかし、終戦が近付くと次第に兵隊の質が低下して病持ちの人まで入って来るようになりましてね、結核で夜中にうなされる者までいました。初年兵時代に苦しみを与えてはいけない、入院させてはいけないと、いろいろと配慮をしました。激しい運動の前後には軽い運動をさせるなどね。その結果、脱落者なしに戦地に送り出すことができました。

 思い出は色々ありますが、中学時代の同窓生が私の中隊に入って来たこともありました。日曜日は古参兵が不在なので、その隙にその同窓生が私の部屋に来て、「腹が減った、何か食わしてくれ」と来たりしました。また、忘れられないのは、周囲の山林が松茸山だったことですね。部隊内のあちこち、面会所にも松茸が出てきてね、面会に来た家族の方が茸狩りをして帰ったりしましたね。楽しい思い出の1つです。しかし、折角手塩にかけて教育した兵隊が高知沖で潜水艦にやられたりという哀しい思い出もたくさんあります。また、沖縄戦の時には飛行大隊を作って沖縄に派遣することになりまして、私も行くことになっていたんですが、教育を充実させるという命令が来て、私は残ることになりました。私の代わりに行った男は亡くなりました。軍隊のことを運隊と言ったのは、こういうことですね。

 兵隊にはいろんな人がいてね、役者の三船敏郎は1つ上で、仲良くしていました。昭和17年の頃には部隊でも演芸大会があってね、三船なんかは張り切ってましたね。浪曲師の広沢虎造の一番弟子もいましてね、虎之助って言いました。虎造が面会に来ると部隊長の部屋で面会をしてね、その後、教育隊を中心に格納庫に全員集合して唸ってもらいました。虎之助も一緒に子弟で唸ってもらってね。


愛媛で終戦を迎える

 そうして昭和20年の5月までの3年余りの間、八日市にいたのですが、戦局が悪くなってきまして、司令部から教育を中止しなさいと命令が来ました。そして、「飛行場を作りに行け」と言う命令を受けて愛媛県に行ったんです。2か月で戦闘機用の簡易飛行場2か所を設置しろという命令でした。愛媛では、私の中隊は自動車部隊でありましたので、物資の調達で部隊の外へ出かけることも多くありました。P-51米軍戦闘機に追われて山の中に逃げ込んだりすることもありました。松山市が戦災を受けた翌日には、兵3人をつれて松山経由で面河(おもご)へ木炭を受け取りに出かけたのですが、松山から避難する人が国道33号線を徒歩で歩いていく姿が大勢ありましたよ。大きな荷物を背負っている老婆が動けなくなって、こちらをじっと拝んでいるのを見て、「久万(くま)を越えて33号と分れる所までなら」と車の荷台に乗せました。当方は空車でしたから。その地点まで30名くらいが乗って行きましたよ。

 玉音放送は、愛媛県周桑郡丹原町の部隊本部で聴きました。でも、ガーガー言っててわからない。説明も何もなく、負けたということはその時にはわからなかったのです。放送が終わってからNHKの解説を聴いても何を言っているかはっきりしませんでした。その頃には、第八航空教育隊は教育を再開しろという命令が出ていましたので、部隊の大部分は八日市に帰っていました。残っていたのは部隊本部で、私の隊はトラックを50台くらい持って行っていました。それを八日市に戻さなければならないので私は愛媛に残っていたのです。そしたら、その日(8月15日)の夜に「明日帰れ」という命令が来て、とりあえず武装解除ということでしたので、38式歩兵銃の整備をしてその夜は過ごしたのですが、翌朝になると「大阪に米軍が上陸して戦闘になるかもしれん」と言われてね、急遽実弾30発ずつが配られ38式歩兵銃で武装して出発しました。米軍の動きが判らなかったので心配でしたよ。駅までみんなを引き連れて歩いたのですが、急な話でしたので、駅に着いても汽車に席がない。200名の兵隊をバラバラに座らせるのはよくないので、頭を下げて回って2両空っぽにしてもらって出発しました。そして、高松から連絡船に乗って宇野に行きました。宇野では、汽車の連絡が10分しかなかったんです。兵隊には30発ずつ配った弾と予備の弾、野営用の毛布などをみんなに持たせてましたので、宇野の港から汽車の駅までの500メートルくらいの道のりを荷物担いで全員移動させるのは無理な話でした。私は駅まで飛んで行って、持っていた酒を2本、駅長に渡して「駅長、すまん。発車を30分送らせてくれ」と頼み込んだのです。その時、駅の人達はみな日本が負けたことを知ってましたよ。当時の汽車はね、空襲やらなんやらで本数がぐっと少なくなってますから、30分くらい調整が付くんですよ。酒2升で30分遅らせてもらえたわけです。そして、車両を200人分空けてもらってね、大阪に向かったんですが、途中通った岡山は焼け野原でした。その時は、何が起きてるかわからない状態でしたし、200人を引っ張っている立場もありましたから、大阪へは死にに行くつもりでした。でも、大阪に着いてみると異常なくてね。そのまま八日市町へ引揚げました。八日市では諸部隊兵舎2棟が破壊され無惨な姿になっていました。そして、9月5日に第八航空教育隊の解散式をやりましてね、武装解除になったんです。

 八日市は海岸から離れていますでしょ、艦上攻撃が八日市にはないのですよ。だからいろんな飛行機が八日市に避難してきていました。海軍やら陸軍やら、戦場から帰ってきて弾が入ったままのやら、練習機やら、終戦の時には約千機の飛行機が避難して来ていたんですよ。小さな掩体が何百とあってね。

 私は家が他の人より近かったので後処理を希望しまして、9月の末に鈴鹿に帰ってきました。後処理ではその千機近いたくさんの飛行機を壊しました。戦闘機もあれば偵察機も重爆撃機・軽爆撃機もありましたね。


戦後の生活

 復員後はトヨタ自動車に戻って仕事したんです。戦地から戻ってきた人はそんなにはいなかったように思います。トヨタに戻ったのが昭和20年10月でした。トラックを500台製造する許可は出たのですが、その頃には物がないで自動車が作れないんですよ。工場も各地に疎開していましたしね。終戦直前の8月12日には1トン爆弾で鋳物工場も空襲でやられてました。それで造り貯めしておいた鋳物とかをね、掻き集めて作りましたね。それでも250台しか出来ませんでした。それでも終戦直後に稼働できた自動車会社はトヨタだけだったそうですよ。

 員した頃の月給は100円でした。さつまいも1貫目30円という物価でね、お金ではなく物を持って行かないと売ってくれないという時代でした。交通機関も大変なもので、名鉄も挙母から名古屋まで帰るのに知立までしか乗車券を売ってくれない。その電車もパンタグラフが下がってストップすることが多く、車掌が竹の棒で押し上げていました。近鉄で名古屋へ通勤するようになってからも電車の太い車軸が疲労切断で運転不能になったことが2回あります。

 昭和25年にはトヨタもつぶれるかわからんということで、日銀の名古屋支店長が中に入ってね、都市銀行で協調融資をしようということになって、販売と製造を分けるという条件が付きました。トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売に分かれることになって、自販に役員として入った先輩に誘われて私は自販に移籍しました。その数年前の23年くらいからその準備にかかっていたので、24年からは玉垣から名古屋に通うようになりまして、昭和50年まで勤めました。51年からは、自動車工業会の物流の部会長をやってたものですから、トヨタ輸送株式会社へ移籍しました。本当に私らは、昭和20年代というのは訳がわからずがむしゃらで大変だったですけどね、それでもフォードに勝つというのが目標でね、頑張ってきました。自販の組織に入る前に本田宗一郎さんにも会いました。「変わった奴や」という周りの評判でしたけどね。

[代田美里]

八日市での集合写真(ご本人提供)