原田敏彦さん(大正10年生まれ、河曲地区在住)

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 私はアメリカで生まれました。母親と父親は日本で結婚して姉が生まれて、その後父は渡米して、母親は姉が3つになるくらいまで日本におったらしいですわ。それから母がアメリカへ来まして、できたのが私です。妹2人もアメリカで生まれました。私が5つの年に、姉を日本に置いているので、いっぺん帰ろうやないかということになりました。子供3人に日本教育もささなあかんということで、母と日本に帰ってきました。私は河曲小学校で教育を受けて日本で育ちました。

 私が16の時に親父が日本に帰って来ましてね、「せっかく市民権を持っているんだからアメリカへ行ったらどうか」と親父に言われて、17の年に単身で渡米しました。それから2,3年、戦争が始まる前までシアトルにあるパシフィックスクールという学校に行きました。あらゆる人種の人が一緒に英語を習ったわけです。


シアトルでの生活

 シアトルでは、レストランをやってみえたキタノさんという家にお世話になってまして、日米開戦の日曜日は学校が休みだったもんでレストランで働いてました。それまでも日米の空気は悪かったんですけどね、まさか戦争が始まるとは思いませんでした。そしたら、日本が真珠湾でアメリカの艦隊を全滅さすぐらいえらい爆撃しとるとラジオで流しとるんですわ。レストランには、しょっちゅう来てくれるお客さんが何十人とおりましたのやわ。ところがその人らがその日の朝は入口まで来とってね、入ってこようとせんのですわ。「入って来い」と言っても白人同士で顔を見合わせてね。「長いこと友達としてお付き合いしてもろたけど、悲しいことに日本人のレストランやで、堂々と入ってけんかもわからんわ」って言いますのやわ。そのうち朝ご飯を食べんわけにはいかんので1人2人と入りだしたら、あの人が入るならええわと言うんで昼頃にはぞろぞろ入るようになって、ちょっとも変わりありませんでした。それでも幾分客は少なかったですわ、だんだん昔通りになってきましたけどね。その時は一番辛かったですね。

 また、戦争が始まると支那人や朝鮮人が「Chinese」「Korean」て英語で書いてあるバッチを付けるんですよ。日本人だと思われたくないからね。あれは悔しかったなぁ。


収容所での生活(ピヤロップ~ミネドカ~ツルレーキ~サンタフェ)

 戦争が始まって半年も経たんうちでしたかな。敵国の外国人ですから太平洋沿岸におってもらっては困るというので、日本人は全部奥地の収容所へ入れられたわけですわ。持ち物は手で持てるだけ、後は処分しました。ひと月前に政府から知らせがあったので、処分する余裕はありました。自分の貯金したお金は全部持っていけました。せやけど家財道具は持ってけやしません。レストランの調理道具などの財産は白人に譲って、売ってやって処分しました。私らがおったシアトルは本当にみんなええ方でしたな。立ち退くときはみんな涙ぐんで握手して、キャンプに入ってからも会いに来てくれてね。今、思い出しても涙出るくらいですわ。

 一番最初はシアトルからバスでピヤロップちゅうてね、競馬場がある所の収容所に入りました。三月ばかりおりました。それから汽車でアイダホのミネドカというところに移って、1年半から2年おりました。1万人くらい入っていたようです。戦争前に呼び寄せた妹と2人で一番小さな部屋で生活しました。その時に、収容所の中に学校が出来ましたんやわ。子供達みんな教育せなならんということでした。日本人を収容しながら管理するのも、2世への教育も、みんなアメリカの先生がやってましたわ。また、収容所の中で仕事の割り振りもありました。キタノさんのところで働いてコックができるもんで、私は食堂で働きますわな。給料もそういう何か技術がある者は日に12ドル、一般職は8ドル、遊んどっても何もせんでも子供も年寄りも3ドルもらえました。それから傍の町へ遊びに行ってもいいって言うんですわ。願いを出してバスが1日1台ずつ、私らも時々遊びに行きました。バリケード、鉄柵がぐるりと収容所を囲んでおって、その中にいるということが最初は辛かったですな。

 その内、「アメリカの市民権持っとる者は遊ばせとく必要ないやないか、2世も戦わせたらどうや」という話がありました。アメリカも色々考えとったんでしょう。そして、本人の意思を確かめてから兵隊にすべき者はするということで、一人ひとり市民権を持っている者が呼び出されて尋問を受けたわけですのやわ。「無条件でアメリカのために協力するか、日本の命令を退けてでもアメリカに協力することができるか」と言ってね。その時は辛かった。私らは日本で徹底的に日本教育を受けてましたもんで、気持ちはアメリカと戦争は嫌やったけども、日本人やわなあ。そんなものは「ノーノー、いいえ」と返事をすると腹決めとった。でも、2世はそうは行きませんわ。アメリカで教育受けて、親が日本人であるというだけで日本て全然知りませんでな。私ら知っとるもん同士でも親子の意見が違って喧嘩しとる家庭がようけありました。陸軍省から来た立派な軍人が「お前らイエスかノーか」って聞くんですわ。僕は「ノーや」って答えて、「そうかお前ノーか。これはしょうがない」と言われてまあそれでよかったんです。

 でも、2世の考え方が違う人は、兵隊に志願して出て行きましたやろ。2世をアメリカの兵隊として採用したはええけど、却ってマイナスやったら困るという意見もあったようです。アメリカはドイツと先に戦争してましたから、最初はヨーロッパ戦線に日本の2世を送ろうやないかということになって、2世を集めて442部隊というのを編制してね、ドイツに包囲されてもう全滅するかというアメリカのテキサス騎兵隊を救出するために送ったんです。ようけの犠牲者を出してみんな助け出したんですわ。それでいっぺんに2世の部隊がよくやったというんでね、評判になって新聞にも出てましたがね。日本人の魂を持っとんのやと賞賛する人もおりましたな。随分日本の部隊を見る目が変わりました。

 一方、私らは、NO-NO組と言われて、「ノーと言った者はアメリカに不忠誠者やからツルレーキて所へ替ってけ」となりました。カリフォルニアの一番北の方、そこの収容所へみんな収容されました。ツルレーキには日本を真剣に思とる連中が来てますのや。日本で立派な教育を受けてきた学者の人もおりましたんやわ。その人らが指導者みたいになってね、「何か日本のために尽くそうやないか」となりました。「今度日本へ行った時に国民に恥ずかしいと思わんか」と言われると、日本教育を受けた者はなるほどなと思うわな。それから気持ちのある者が報国青年団と言ってね、グループを作ったんですわ。みんな丸坊主にして。入らん者は強制しやへんだけどね。色々やりましたわ。アメリカのキャンプの中でそういうことをやるもんやで、管理しとる者は気に入らんわな。「大人しくしとってくれ」と言うのやけど、私らは血の気が多いで収まらんのですがな。あんまりやり方が激しいと、危険人物と見なされるわな。それで最後は、サンタフェていう所の収容所にそういう危険人物は全部寄せられました。一流大学の先生とか立派な人達がそこに捕まってましてね、半年以上毎日そこで勉強させてもらいました。

 終戦はラジオが聞けてね、日本が無条件降伏したちゅうて放送してました。そのうちにね、すぐ傍のサンタフェの町で自動車の後ろにカンカン引っ付けて「戦争が終わった」ちゅうてね、アメリカ人でも嬉しがってるのが見えてね。広島に原子爆弾が落とされてようけ犠牲者が出たっていうのも新聞で知りました。日本では分からんこともアメリカのニュースはなんでもわかりました。


帰国

 それから1945年の10月の末頃にね、「日本に帰りたい者は帰ってよろしいで募集する」ちゅうたので、私らは志願してね。サンタフェから汽車で150人ばかりシアトルの港へ行くことになりました。でも、シアトルへ向かう列車が途中の平原地帯で止まるやないですか。何でこんな所で止まるのかと思ったら、書類が配られて、「自分の本当の気持ちで志願して帰るのかサインせえ」って言うのや。「日本は戦争に負けて不自由して、お前らはアメリカに長いことおったんやで日本へ帰る必要はない。戦争は終わった、元の所に戻って働けばいいやないか。」って勧めるんですわ。誰一人降りようとしませんでしたけどな。一人ひとり自分の意思で帰りますと署名してね、立派なもんでしたな。

 シアトル港からは、アメリカの軍用船に乗って日本へ向かったんです。12日ばかり掛かりまして、東京湾に入りました。そしたらアメリカのB29がおるやないですか。日本は本当に負けたんやなあと実感しましたね。朝着いたんやけども昼からやなけな浦賀に上陸することできませんでした。同じ船に乗っとった日本の外交官が先にアメリカの軍部のポンポン船に乗せられて巣鴨の拘置所へ送られて行くのを見とったんですわ。あの人らは本当に気の毒でした。それから、半日ばかり自分達でスーツケースを持って歩いて、宿舎に着いたのは夜中になってしまいましたわ。ご飯の知らせを受けたもんで食堂へ行ったら、赤いご飯がいっぱい並べてありますやないですか。わざわざ帰国をお祝いして赤飯を炊いて迎えてもらったんやと思ったら、米が白米になっとらしませんのやわ。玄米やった。涙が零れましたな。そこで手続きやらで1週間ばかりおりましたかな。その間、故郷へ電報打ったり何やかしてね。東京も見てこなあかんて2回ほど遊びに行ったんですわ。ところが、京浜電車はガラスの代わりにベニヤ板が貼ってあって、外を見ようと思っても見られやしません。真っ暗でした。

 それで、手続きを済ませて、スーツケースを持って東京駅から三重県へ帰って来ましたんやけどな。東京駅に3時頃から行って、みんな満員でなかなか汽車に乗れやしません。買い出しの人が座り込んで長いこと電車を待ってますのやわ。私ら一晩中汽車の通路へ座って一睡もせず名古屋まで来ましたがな。それから近鉄で若松まで来ました。近鉄は窓ガラスが割れてベニヤ板が貼っている所はたまにあるだけ、京浜電車とは雲泥の差がありました。若松から神戸へ着いて歩いて帰ったんです。一緒に収容所に入った妹はサンタフェへ送られなかったので3,4か月別々に暮らしていたんですが、やっぱり親がおるというので後から日本に引き上げて来ました。

 アメリカからドロップやチョコレートを少々持って帰って来たら、6つや7つの姪が欲しがって、「こんなもの食べたことない」って喜んでね。それでその日の夜中、寝てましたら日本に残っていた方の妹が枕許に来て「兄さんからアメリカの菓子やってちょうだい」って泣くんですよ。やるって言ったのに、「黙って食わしたら悪い」って枕元に返してあるんですわ。「みんな持ってけ」って言うてね。可哀そうでした。農家でしたもんで町の人と違って食べるものには不自由なかったでしょうにな。

 その頃、京都の方から立派な着物やら持った人が「米を分けてくれ」って来て、母親は「安う分けたる」と言うて持たせてやりよった。「可哀そうやったで着物は貰わへんだ」って言うてましたわ。

 それから、親戚の人が四日市倉庫が通訳を探しとるいうもんでわざわざ知らせて下さった。会話ぐらいならわかるわな。それでアメリカから援助物資で砂糖やら小麦などが入ってきますので、それを書類上で報告したり、通訳したり、色々なことがありました。そこに3年ばかり勤めました。ところが親が百姓をしっかり手伝ってくれと言うもんで、先祖から貰った田畑もあるもんで守らなあかんと思って退職しました。

 アメリカに、ほとんどの人は残ったんじゃないですか。一時、財産全部放棄してキャンプに入ったですやろ、それで帰ってきてから一からやり直しやでアメリカに残っても苦労したでしょうな。私らは、日本教育受けてましたから、アメリカはええ国やと思っとっても祖国、日本を忘れられませんわな。でも、シアトルはええとこやったなあと私も未だに感謝してますがな。

[吉田有里]

昭和38年 旧海軍工廠跡地を西側から望む 旭ダウ、ホンダ技研などの工場がみえる(鈴鹿市)