男性(大正11年生まれ、牧田地区在住)

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一等工員伍長として働く

 私の生まれは四日市で、祖父は医者をやってました。昭和20年6月18日の戦災で家が焼けてよう帰って行かへんので鈴鹿に移ってきたんです。四日市におった頃に四日市商業学校に入って、そこを昭和15年3月に卒業してから銀行、今は東海銀行って名前ですけど、そこに勤めてたんです。

 ところが、昭和18年7月頃に陸軍兵科防空兵教育召集があって、浜松の中部第72部隊(陸軍)に入隊したんです。出撃する日に家族と面会しただけで船に乗せられてフィリピンに輸送される予定でした。ところが、幸か不幸か私は陰のう水腫を患って帰郷したからよかったが、私が乗るはずだった輸送船が米軍の魚雷にやられて全員全滅ですわ。その後で私は復員局に行って調べたんですけど、その人達の事は載ってませんでした。全滅したなんて格好悪くて発表しませんわな。

 帰郷した後、一応兵隊は解除になるけども手術しておけ、もう一回召集かけるでってことで、まぁしゃあないわって思って手術したんです。手術が終わってからしばらくは何にもいうてこうへんだけど、昭和18年の12月に今度は徴用で召集になったんですわ。あいつ遊んどるでって事だったんでしょうね。しかもその時は陸軍じゃなくて海軍の方です。私らは17年兵でした。昭和の17年に徴兵検査があったからそういわれるだけで大正11年生まれの者ですわ。

 あの時は兵隊に行っても、もともとの本職は銀行員でしたから、銀行からは給料が入って兵隊からも給料が入ってってことで二重で入ってきました。ようけもらいましたに。若い者はようけ儲かった時代でした。その代わり危険ですよ。死ぬ覚悟で行かないかんからね。

 徴用で兵隊に入ってすぐに実地訓練があって、家にも帰らなかったんですわ。初めの1,2週間は鈴鹿の海軍工廠でやりました。軍隊教育で閲兵分列の格好ばっかりさせられたわ。それから今度は養成で豊川海軍工廠に行ってこいってことで、6か月間見習工として配属させられたわけです。豊川では忙しかったですよ。鈴鹿みたいな遊んどるような工場とは違いますわ。豊川では私より若いやつがおって「おまえどこから来たんや」って聞いたらずーずー弁でしゃべるからわからんの。よく聞いてみると多賀城から来たって言うんです。その時に私も初めて聞いたんですけど、多賀城に火薬工場がありましたんやな。そいつがそこにおったって言うてましたわ。

 鈴鹿の海軍工廠に帰ってきて、昭和19年の7月頃に私は一等工員伍長に命じられまして、火工部第二装填工場の技術大尉の下に属したんです。ちょっと位が高こうなった人っていうのは大体が呉の人間でした。だから、鈴鹿の海軍工廠は、流れは呉だけど、技術としては豊川の流れだったってことです。

 私がいた頃はね、鈴鹿の海軍工廠は舗装がなんにもしてないもんで、時たまなにかの部品が届いたぞっていうと私の下のやつと朝のうちに運びました。そうじゃないと、冬には氷が溶けて赤土まじりのぐじゃぐじゃの道になるんですわ。工廠では、大体1万人ぐらいの人がそれぞれの部署に分かれて作業したんですよ。その時に私がやってた作業はね、爆弾の信管製造最終工程組立ですわ。鈴鹿では2式13ミリとか20ミリの弾を主に量産していましたが、私は鈴鹿では余りやっていなかった九七式爆弾信管の製造部門でした。私の部門では火薬の圧填をしていましたが(アザイト圧填)、その時にちょっとの摩擦でもすごい爆発が起こることがありました。豊川におった時は、ひどい時は1日に1回は起こるし、普通でも1週間に1回は起こってましたね。まぁ、破裂したって指1本飛ぶくらいの傷ですけどね。たまには即死の事故のケースもありましたけどね。そういう危険な作業もありました。

 玉音放送は海軍工廠で聞きました。天皇さんからの大事な放送があるでみんな聞けってことでね。それでもなんて言うてるかわからへんのや。なんか日本が負けたらしいって言うだけやった。周りも泣くやつなんかはおらへんだな。みんな静かに聞いとったな。

 終戦になったら鈴鹿海軍工廠総務部から私が保管していた青写真を焼却するから持参せよとの命令がありました。アメリカに見つかるとあかんでって事だったんでしょ。私に直接命令が来たわけじゃないですよ。でも本部から命令があったわけやから、私の上司から「持ってけ」って言われて、私が木箱のまま提出したのを覚えてます。


戦後の生活

 終戦後は、海軍工廠もなくなったで職も失ってどうしょうなって思とったら、叔父がまだ籍は銀行にあるんやから銀行に戻れってことになって、銀行の方も「来てくれ」って言うてくれたからまた戻ったんです。

 その後、銀行を昭和23年に辞めて、友達と一緒に1年間電気屋の商売をしてましたんや。それから、私は22年間税務署に勤めていたんですが、通勤が嫌になって自分から税務署を辞めて、ここで税理士になったんです。

[杉山亜有美]

昭和20年代後半 海軍工廠跡付近での大根のはざ掛け作業(鈴鹿市)