亀山から鈴鹿へ
生まれは亀山市昼生村下之庄で、昭和22年にここ(弓削)へ嫁いだん。津へ爆弾が落ちるのはさな、線香花火がひらひら、ひらひら落ちてくるみたいでな、よく見とったな。私は会社ってどこも行かんかったな、うちで百姓を一生懸命やらんならんしな。徴用もあらへんだわ。
勤労奉仕
女子青年の時に鈴鹿海軍工廠の所へ「はざま組」っていう組があってな、建設の過程で削ったごみを捨てに、下之庄から遠くの平野まで歩いていったな。工廠を建てるのやな、海軍工廠を建てるので昔はよけそういう組が来とったわ。それで私はバイクに乗っとったで、はざま組やそんな組へ、よけ野菜やらおかず物を運んだわ。その辺りはよけ泊まっとるやろ。こういうおばさんがおかずを持って来るよってな。昔は「はんばあ」って言うとったわ。
川村フルーツ
私のとこは今の塩川(病院)の前で「川村フルーツ」って店をしとった。3軒か4軒かしか建ってなかったな。ちらちらとしか建物も建ってない頃で、電気もきとらへんし、始めはろうそくの火で商売しとったんやに。店は旭ダウが来たから始めてな。旭ダウが延岡から来たやろ。北のほうにずーっと宿舎が建っとったわ。それを目当てに店を建てたら、ほかにもどんどん増えてな。
私のとこは兄弟6人おるし、弟達は嫁さんもろて。田舎では分家さすやろ。分家する時は2反くらい土地をやらんならんわけ。そやで土地をやったら母屋の方にはもう土地がよけないで、食ってけやんようなったでさな、おじいさんがその商売を思いつかはったんやろ。昭和26年におじいさんがトタン小屋壊して、塩川(病院)の前へ店を建ててさな。鈴鹿百貨店に入って、わたしのとこのお父さんも実行委員長やらをして、みんな夜も寝やんとあっちこっち勉強しにいってな。地元の借家が建っとるのを立ち退きさせてやな、苦労に苦労を重ねて店を創りはった。他に何にも店、あらへんだもん。終戦直後は豊津やそういうところから自転車で鰯やら、じゃこやらを売りに来よったわ。それでも昔は銭があらへんでさな、そんな鰯やじゃこでも買う家はよけあらへんだに。
店で出す商品は市場まで買いに行ったんや。商工会議所がある端に大きな青果市場があってな。百姓の人が作ったものを持ってくるやろ、そこで買うて。始めは店まで自転車で運んでござって、それから軽オートバイで、それから自動車とだんだん変わってな。果物は買いに行ったけどな、野菜は売っとらへん。果物だけ。スイカやらもう、時節時節のものを、籠盛して売っとんやさ。病気の時の籠盛、葬式の籠盛。ほんでよう売れたの。果物もええ果物売っとったで、高かったけどよう売れたに。日清の油とか、味の素やら、浜乙女の製品やら贈答品も商品はみんな問屋が持ってきて売っとった。
戦後の暮らし
私らは山やで、米の供出の程度が低かったな。米にはなんも不自由せんかって、ヤミで売っとったわ。ほんでようけ大阪からは芋やら米やら買いにござったわ。私は1回大阪まで持ってったことがあるがな。着るもんあらへんし、米持って天満宮へ1人で行って、着るものと換えてもらってくるんやわ。着るものは配給でちょっと貰ってくるだけやな。ほんで嫁に出す時でも何にもあらへんで、布団やなんでも買うてきて家で直してな、作ってもらった。白い木綿も配給やで、そんなにあたらへんわな。自分で染めもんして着物みたいに縫うてさな、それで(嫁入り道具として)持って来たがな。