女性(大正12年生まれ、国府地区在住)

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 生まれは白子です。昭和18年に結婚して兵庫県神戸市に移って、その後、昭和20年にこちらに帰ってきました。国府の家では、代々味噌・醤油の製造・販売をやっておりましたの。蔵も建ってたんですけど、時代の流れで10年ほど前に辞めたんです。


戦中の思い出

〔航空隊員を下宿させていた〕

 航空隊も近くにありましたので、白子の家の方では隊員を下宿させておりました。あんまり覚えはないんですけど、白子は強制的に泊めさせられたように思います。家に泊めたのはだいぶ偉いさんばかりでしたよ。3人ぐらいみえてね。毎日は来ないんですけど、土曜か日曜にいらっしゃると、私もお世話したのを覚えております。九州の方が多くてね。交流はあまりなかったんですが、みなさん家に来てくつろいでおったように思います。その方々も半分くらいは出征して亡くなりました。いつ行くっていうのをはっきりおっしゃらないんですよね。軍事機密っていうんですかね。でも、なんとなく様子で察して、家でお別れ会なんかをしたのは覚えてます。私も15,6歳の子供でしたから、はっきり記憶はないんですが、「元気で帰ってきてください」と言ったように思います。

〔白子にいた頃の思い出〕

 白子にいた頃は、まだ食べ物に苦労するとかそういった事はなかったですね。厳しくなってくるのは太平洋戦争が始まってからだったと思います。それまでは勝ち戦でしたものね。南京を陥落したっていうと、白子でも提灯行列をしたのを覚えています。戦争が激しくなってくると、私達もモンペを履いて青春時代を過ごしました。だから、今の人達が好きな格好していられるのを羨ましく思いますね。

〔女学校での思い出〕

 私は河芸女学校に通ってました。50人のクラスが2つあって、1学年100人くらいがいたように思います。地元の方が多かったですけど、遠方からみえる方は寄宿舎があって、そこに入って生活されてたんです。

 女学校にいた時の思い出は、最高学年の時に行った修学旅行でしょうか。東京に一週間行ったんですよ。戦時中にしては割合に贅沢をしました。楽しかったですよ。日光とか回ってね。それでも、昭和13年頃からは、勉強もせずに勤労奉仕ばかり行くようになりました。はじめは少しずつでしたけど、だんだん激しくなるとそういうことも多くなっていきました。

 勤労奉仕にはクラスで分かれて5,6人で行ったでしょうか。学校の目の前が航空隊でしたから、そこの草取りに行ったり、出征兵士の家の田植えを手伝いに行ったり、桑摘みに行ったり、色んな事をしました。田植えは、ヒルがいっぱいおってね、靴下履くとヒルがひっつくでしょ。そうすると取れないんですよね。すごくかゆくてみんな掻いてました。だから、ちゃんとお手伝いになってたかわかりませんね。他にも、桑摘みに行った時に毛虫にやられていっぱいかぶれてね。そしたら、先生から「もう帰ってよろしい」って言われて、家に帰ったことがあるんです。よう忘れませんわ。

 竹槍やバケツリレーの訓練なんかもやりましたね。女学生でしたので、そんなには厳しくなかったですけどね。

〔名古屋、神戸へ〕

 河芸女学校を卒業した時に、職に就いていないと女子挺身隊にとられるという話を聞いておりましたので、それならどこかに勤めてればいいかと思いまして、私はたまたま名古屋に知り合いがおりましたから、名古屋の税務局に行っておりました。私みたいに、どこかに勤めてみえる人も珍しいわけじゃないんですよ。看護婦さんや先生になられた方もたくさんおりますし。税務局では秘書課におりまして、来客のお世話とか、タイプライターを打ったりもしました。

 16,7年ぐらいは名古屋にいてもそこまで生活に不自由はなかったですね。それでも、終り頃は名古屋の空襲が怖いってことで、四日市に移って、こちらから通ってました。それから、昭和18年に結婚して神戸(こうべ)に行ってました。昭和20年頃は、防空壕に毎晩入ってね。初めは、怖いから息子と3人で防空壕に入るんですけど、1月、2月の寒い時でしたし、防空壕って材料がなかったから、ざら板が敷いてあって、そこに布団が置いてあるだけで、食べ物はない、着る物はない、そんなんでしたから、だんだん嫌になってね、もう3人一緒なら死んでもええわって思って、終りには防空壕にも行かず、布団の中におりました。

 主人は休みなしで川崎重工業に勤めてて、朝早く出ていって、夜遅くに帰ってくるっていう生活でしたから、心配してました。それと、家はお米作ったり商売したりしてましたから、時々、物を貰いに行くんですよね。ある時、八木だったかな、帰りの電車で空襲があって「降りて下さい」って言われて、近くのお宮さんに避難しました。当時は、お米なんか持ってるってわかったら、せっかく難儀して持っていっても、みんな取られちゃうんですよね。だから、腰にお米を巻いていくんですけど、大変でした。その時は荷物をそのまま置いていって、空襲が終わったら、またその荷物を持って神戸に帰れると思って、汽車に置いていったんです。ところが、電車に戻ってみると荷物がないんですよ。ようやく荷物を見つけたんですけど、お米だけなかったんです。そのお米がどうなったかはわかりませんね。


戦後の生活

 昭和20年の5月か6月頃に、こちらの国府の家に帰ってきました。だから、玉音放送はこちらで聞いたんですよね。大事な放送があるから家族みんな集まれってことで聞きました。聞いた時は「どう言われたかはっきりしないな」って言って。知り合いの伯父さんに「戦争に負けたんだよ」って言われて放送の内容を理解しました。ほら、ラジオの音も悪いし、天皇陛下のお言葉もよくわからないでしょ。

 終戦を知った時はホッとしました。口では言えないですけどね、みんな心の中ではそう思ったんじゃないですかね。

 終戦後も1,2年は食べ物もなくて大変でしたよ。この辺りはそんなになかったわけじゃないですけど、都会に住んでた方は苦労されたんじゃないですかね。それと、軍関係の物は全部焼きましたよ。噂ですけど、進駐軍が来て証拠になるものがあったらひどい目に遭うって言われてたからね。

 戦後は仕事が忙しかったですね。配給でどれだけ出荷せぇって決まってるでしょ。昭和21,2年ぐらいまで統制ってのがあったですよね。その頃は、家の商売も割り当てだけ作ってました。だけど、大豆がないですよね。だから、大豆から油を採ったカスから作りました。なんでも配給でしたから、配給で来たもので作るんですよね。忙しかったし、大変でした。

 こちらの家では、そんなにひもじい思いもしませんでした。私は毎日3升のご飯を炊いたんですよ。使用人もいましたから、10人ぐらいの食事を用意してました。服装も着物ばっかり着てました。戦中は着れませんでしたから、みんな楽しんで着てました。戦後は何着ても自由でしたでしょ。それに新しい服は買えませんでしたから、手持ちの着物を着てる人が多かったですね。

 鈴鹿市に本田技研が来て、2輪始め、4輪始め、従業員が1万人ぐらいになりました。すでに、その頃には旭化成とかカネボウとかがあって、いろんな企業が入ってきた頃が鈴鹿市が一番元気になった頃じゃないですかね。今でもそれは続いている事だと思いますね。あと、サーキットですね。知名度を上げるって意味でも鈴鹿にサーキットが出来た事は大きかったと思います。本田が出来て、サーキットが出来た頃が、鈴鹿市にとって転換期だったと思います。


戦争を振り返って

 私達は今でも女学校時代の同級生が集まって、月に一回クラス会っていうのをしてるんです。もう人数もだいぶ減って6人になってしまったんですが、それがある日は戦争で苦労した話はいつも話題に上りますね。そういう話を一日中してるんですが、苦労したことも今では思い出話になりますね。女学校時代に修学旅行で行った思い出の場所に、みんなで旅行に行ったこともあります。「こんなんだったかな」なんて言ったりしております。

 今は息子夫婦と楽しく暮らしています。鈴鹿は大変住みよい所です。いつまでも平穏な日が続く事を願っております。

[杉山亜有美]

昭和35年ホンダカーブ号100万台達成記念(鈴鹿市)