私は上箕田で生まれました。家は農家をしてましたけど、親父は大工でしたん。大工兼農家ですわ。本当の百姓じゃないから畑も小さかったですよ。まぁ、でも、米作ってましたから、あんまり食事は難儀せんだな。正直、豆食うたりおかゆに葉っぱ入れたりはなかったですな。友達がフスマを団子にして食べとったのを見たりもしました。麦の皮をフスマっていうてさ、牛のえさになるものを食べてたん。都会から来とる人もおるやろ。かわいそうやから、私のを少し分けてあげたりしてね。代わりに、私もフスマの団子を食べさせてもらったけど、あれはおいしいもんじゃないですよ。
昭和4年4月には箕田尋常小学校に、昭和10年の4月に尋常高等小学校に入学しました。入学式とか、卒業式には来賓として将校が来てたん。軍服着て、軍刀も付けてね。これにはね、箕田の在所の人が来るんやな。ほりゃ、ものすごい偉い人に会うんだから、将来はあんな風になりたいなって思うわさ。
近鉄に入社
私は昭和13年6月に近鉄、当時は「参急」って言ったけど、そこに入りました。小学校卒業してすぐに阪神電鉄に入ったんやけど、そこは1年で辞めて、上箕田に帰って来た時に、ちょうど近鉄の募集がありましたので、上手いこと入れたんですわ。近鉄入ると、初めは便所の掃除ばっかや。今みたいに清掃専門の会社なんてないですやろ。だから、新米の社員がみんなやる。もちろん切符を切ったりとか、そういうこともせなあかん。駅の雑仕事ばっかりね。1年ぐらいはみんなそうなんですよ。
私が車掌になるまでには、3年くらいかかりました。昭和15,6年ぐらいやったと思うんですわ。そうすると、じっきに戦争が始まりましたやろ。私が車掌しとる時に、白子の航空隊に飛行機を運ぶっていう仕事があったんです。運転手と2人ペアになって、名古屋の三菱でつくった飛行機をさ、貨車に乗せて運ぶわけや。3組ぐらいが交代で運んどった。朝出勤のやつもおれば、夕方から泊りのやつもおってさ。運ぶ飛行機は毎日何機って決まっとるわけやなくて、不定期で、多い時は2,3回ぐらい運んだけど、時にはない日もあった。飛行機っていっても簡単なもので、今見ればおもちゃみたいなもんや。こんなんで飛ぶんかいなって思ったからね。羽はさ、邪魔やから外して横っちょに立ててあるんさ。部品で運んでいくの。航空隊に行くと三菱の組み立て工場があるから、そこで工員さんが飛行機に組み立てて航空隊に持っていくのさな。そのことはよく知らんけどな。私らは四日市の駅から白子の駅まで運ぶだけ。四日市までは国鉄が運んでくるでさ。白子の駅からはディーゼルで航空隊まで工員が運んでって、空っぽになった貨車もまた工員が返しに来るの。
私は電車に乗せてある練習機に乗って、組み立て工場まで行ったことがありますよ。行きはね、飛行機はどんがらがん(空っぽ)やから人が入れるの。だから、待ち時間をつぶすためにね、遊びでそんなことやってたの。
近鉄にはね、青年学校があって、そこにも勤務が終わってから行ってました。仕事とは別で無給ですわ。今の四日市駅の200メートルくらい先の「熊沢ビル」ってところに学校があって、「鵜森公園」ってところで教練をしました。週に3回ぐらい行ったかな。会社の服装やなしに、訓練用の服着て、近鉄が雇ってる兵隊さん3人に教えてもらうの。学年も1年生から5年生まであって、兵隊に行くまでやるの。私は昭和18年5月に徴兵検査を受けたんですけど、なんでか知らんけど、ちっともハガキが来やん。みんなにも「もう忘れとんのやぞ」って言われてさ。そしたらね、1年ぐらいして昭和19年の4月1日に久居へ入隊しなさいって通知が来たのやわ。だから、青年学校にはみんなより1年多く行く羽目になってしもて。学年も5年生までしかないから研究生っていわれてね。
軍隊での思い出
通知が来たで、私も久居へ行かんならんようになってね。その年は箕田からちょうど5人が久居に入ったんです。兵隊は年度やなくて暦でいうから(生まれが)1月1日から12月31日の者を集めるの。私は1月生まれですので、年は1つ下の者と一緒になりましたんや。久居へ行く時は、箕田小学校で挨拶して、駅までみんなに見送ってもらったね。小さい子供が旗持ってホームの東側の道にずっと並んで送ってくれました。
久居に入った時は、昭和19年で、戦争が一番激しくて大変な時でしたでしょ。私は青年学校で基礎的な事は教わってますで、基礎教育は5日間しただけでした。久居は第一中隊から第十二中隊まであって、1つの中隊に新兵が55人入りましたん。軍隊では、機関銃とか衛生とか、それぞれの専門の事も学ばなあかんのです。特業教育って言いましたけどな。入ったらすぐに教わるんです。私は、なんでか暗号に入りましてな。暗号に入るんは55人の内で1人だけでしたんや。暗号ではな、本当の機密やから教育用の教科書も連隊本部のおっきな金庫に入っとんのやな。私達は教科書借りに行かなあかんので、毎日当番が行ってね。私は怖くて借りに行くのが嫌でした。3か月は暗号の教育で、同じことばっかしてましたよ。でも、それが仕事でしたん。
3か月の教育の後は、外地に行ったんです。いつどこへ行くかってことはわからんのよ。阿漕から汽車に乗って、下関行って護送船に乗せられて、着いたんが台湾。高雄に一週間くらいおって、そこからまた船に乗ってマニラへ行って、そこで3,4日おって、次はボルネオ、シンガポール、ビルマ、最後はタイで終戦を迎えました。
兵隊って食う物はなかったとかよく言われるでしょ。ところが、シンガポールに行った時はさ、日本の物資の集積地やったから、なんでもあった。梅干しは樽に敷き詰められてズラーっと並んどる。冷蔵庫には牛の太ももが両側に並んどる。こんなんはシンガポールだけやに。内地でも見たこともないほど食べ物があった。私は、一等兵で、最下位の階級やったのに、食事には厚さ3センチくらいの草履みたいなステーキが付いたんですよ。もちろん銀飯は山盛りですに。他にも見たこともない、聞いたこともない食べ物がいっぱいあって、軍隊の飯食わんと現地のものを食べた、食べた。そしたらな、卑しいもんで赤痢にかかってしもて、シンガポールの南方陸軍第一病院ってとこに入ってさ。でも、病名が悪いわな。伝染病やで本館へは入れてもらえへんだ。便所に1日座りこんで、薬もあれへんで絶食やわな。当時60キロあった体重が35キロになって、医者からも看護婦からも宮崎って名前は呼ばれんとガンジーって呼ばれとった。
昭和20年の3月には、ビルマが陥落する寸前で、山ばっかを逃げたな。6月までかかって山を越えてったんやでな。タイで終戦になった時も、私は山におったので、19日まで終戦って知らなかったの。19日に上官からそう告げられた。「おいおい終戦になったわ」って、「イギリスもアメリカも5分5分でな、引き分けになったわ」って言われて、みんな「ええやないか」って言うて、終戦になったら家に帰れるって思って喜んでさ。私らは職業軍人じゃないしさ、一番下っ端やで家に帰れたらええわって大騒ぎ。そしたら、あくる日にイギリスが武装解除ってやって来て、武器は全部取られて、昭和21年の6月まで3万人ばかりが1か所に収容されました。収容生活っていっても何にもしてなかった。朝起きて、体操して、ご飯食べて、また寝るって生活。
6月1日に、バンコクを出る船に乗って復員したの。そういっても船はさ、日本に行くのか、アメリカに行くのか、どこへ行くのかわからんわさ。聞くにしても南方へ行ってたから、みんな顔が黒くて日本人ってわからんしさ。船員になんとか聞いたら「これは日本の復員の船で、日本に向いてる」って言われて安心したの。6日の朝に富士さんが見えて、やっと日本に来たぞって喜んだな。それでも、夕方まで港に入れてもらえんし、入ってもDDTっていうて、白い粉をくぐってって消毒をせなあかん。結局、箕田に戻ってきたのは15日くらいやったかな。
復員
箕田に帰って来た時、たまたまね、電車にいとこが乗っとったの。いとこは「おーい、行ちゃん帰って来たにー!!」って自転車で家まで知らせてくれてさ。家の者は私が帰ってくるなんてちっとも知らんから、雨降っとったのに母親が家から飛び出してって、片足下駄、片足草履で迎えに来た。
帰って来てからは、まだ籍が近鉄にあるから近鉄に戻ったの。近鉄は「いつって言わんから体が良くなったら戻ってきてくれ」って言ってくれてね。それはありがたかったな。一週間ばかり休養して戻ったのやけど、僕以外にも復員して来とる者もようけおるで、仕事がないの。それに、当時は女の車掌、運転手もようけおったでな。朝に出勤簿に判押して、何にもせんと16,7時になると帰ってきた。1年ばかり何にもせんだ。それで、いい加減運転手になれって言われて運転手もしたな。定年になった昭和55年の1月22日まで近鉄で働いてましたわ。