岡田正さん(大正13年生まれ、河曲地区在住) 

91 ~ 93

戦時中の食事情

 私は須賀の生まれです。家は農家でしたので、食べ物には困りませんでしたな。白いお米も食べました。私だけじゃなくて、農家はどこでも自分とこの食べる分の米は作ってましたから食べれたけど、都会の人はえらかったやろな。配給制度で、絶対量が不足してましたから、食べ物には不自由したでしょ。農家もね、供出があって、米を出さなあかん割合が決まってました。その割り当てだけは絶対に出さなあかん。どんだけ獲れるかって調べにくるの。こんだけ坪があるはずやから、今年はこれだけは獲れるはずやってね。それを出さずに売るのがヤミ米。それを警察が見張とって、見つかると罰金になるの。下手すると懲役に行かなあかん。昔はさ、警察はすごい権力持っとったからね。ヤミで買うとる人は、自分の持っとる一番いい着物を持てって米と交換してくるの。大体の相場は決まっとったけど、どんだけ交換するかっていうのは、それぞれの交渉によって決まるんです。この着物やったらこんだけ交換したろっていうわけさ。


軍隊に入隊

 昭和19年に現役入隊で召集令状が来て、その年の9月1日に久居の中部38部隊に入隊しました。その時は今の近鉄線が鈴鹿までしかなくて、名前も神戸駅だったでしょ。そこから万歳万歳って送り出されてったんやけどさ、その電車の窓から高岡山が見えてさ、「あぁ、これが見納めかなぁ」って、「もう二度とこっちには戻ってこれない」と思ったもんね。

 久居で2か月、3か月過ごしたくらいの時に、志摩の国府村まで海岸の近くの山に穴を掘りに行ったん。技術を教えるとか、本土決戦に備えるとか、体力をつけるって意味があったんやろね。久居から歩いて行ったんやに。それも、完全軍装で、体に鉄砲やら食糧やらをおいねて(背負って)行くの。銃、銃剣、背のう、外套、弾薬、水筒、雑のう、防毒面、飯盒等、約20キロ余りを身につけて歩く。久居から志摩の国府村、和具まで1泊2日で歩くと、足の裏はマメと靴ずれで針の山を歩くようだった。

 久居に半年くらいおった後、3月には敦賀っていう若狭湾の方に行って、そこに3か月おってね。転属っていうの。その後、福知山っていう京都の教育隊で職業軍人のたまごやって、少尉になる教育をされとったん。その内容は軍隊の基本的な戦争をする方法とか、機械の使い方とか、化学兵器の使い方もあったんやに。戦争の為の知識を叩きこまれとったん。福知山は、山やったから空襲もなかったし、京都だったから文化都市でアメリカさんも爆弾を落とさなかったから、平和やったんやわ。福知山におった時に終戦になったから、軍隊生活は1年だけでしたん。8月15日の敗戦から9月までは福知山におったでな。

 終戦の時はな、天皇から重大な話があるから集合しろって言われて聞いたんやけど、ガーガー言うて、何言うとるわからへんの。昔はテープなんてないからレコード盤でしょ。それに、天皇も負けたってはっきり言わんしね。「耐えがたきを耐え…」ってもしかしたら負けたんじゃないかなって思ったぐらいでさ。最後に負けたっていうのはわかった。天皇もえらかったわさ。降伏したら自分は殺されるってわかって、それでも国民の為に自分の身を切って放送したんだから。アメリカやったから良かったけど、他の国やったら天皇は殺されとるね。

 天皇さんてね、あの頃は現人神って言われて絶対的な存在でね。天皇って言葉を聞いただけで「気をつけ!」って言われて。そりゃ教育ってもんはすごかった。軍隊でもね、上官の命令は天皇の命令やって言われて、絶対服従で反抗したら銃殺でしたから。


軍隊生活

 私が入隊した頃は、軍隊の装備として小銃、99式の歩兵銃を1丁ずつと銃剣って腰につける短い剣を全部貰えたけど、それから半年も経たんうちに、服だけは新品、銃は5人に1人ぐらいで、水筒もなくて竹で作ったんを渡されたの。それだけ物がなかったのさ。その時は、これで勝てるかなって思ったね。

 私達は、実弾射撃の練習もそこそこに、すぐに戦地に出てくの。私の後に入った人は、東シナ海で輸送船に乗っとった時に、魚雷にやられて死んでった。私は幹部候補生に志願しとったから、戦地には行かず、訓練が全部終わった後、事務所で勉強しとって、事務員さんに「岡田さん9月20日の初年兵全滅やわ。輸送船でみんなやられてしもた。」って言われて知ったの。かわいそうなことしたなって思ったね。何千人が一発の魚雷でやられてしまう。

 軍隊の生活は思い出すのも嫌ですね。朝は起床ラッパですわ。タンタタンって聞こえてきたら「起きよ」ってことなんです。起きやんと殴られるんですわ。不寝番が「起床!」って叫ぶ。9時に寝て6時に起きるって軍隊では決まっとるんですわ。また夜中に非常呼集がしばしばある軍隊では、1時間交代で不寝番をせなあかんのさ。夜中に「不寝番や!」って言うて起こされるの。冬になるとさ、夜中の眠たいときに起こされるのが辛いのさ。そのくせ、朝は6時になると起きやないかん。「起床」って言うてくると、パッと起きて服替えて、営庭に早く行った順に並ぶの。遅いと後ろになるから、「こっから後は回ってこい!!」って言われて走らされるの。要は罰や。

 新兵、古兵もいろいろありますよ。新兵は古兵の洗濯から食事からみんなせなあかん。飯でもさ、飯上げっていうて、ご飯を10人くらいで取りに行くの。プランターみたいな木の箱にご飯が入とって、それを担いで、みそ汁と一緒に各班に持ってく。それを食器、いうても汚らしいアルミの茶碗やに、それに盛ってさ。ご飯も新兵のは、水平もあらへん、少しへっこんだくらいにしか盛らんのやけど、古兵のは山盛りに盛らなあかん。茶碗の端に米粒も付けたらあかん。それに気付かんと持ってくと「こんなもん食えるか!」ってやられるの。ちょっと付いとっても机ごとバシャーンってこかされる。机の上には自分らの分も置いてあるでさ。そうすると、炊事にまた貰いに行かなあかんでしょ。炊事でも「何しとんのや!」ってしこたま叩かれてさ。将校や班長さんにもなると、瀬戸物のちゃんとした食器に山盛り飯盛ってさ。それからみそ汁、漬けもの、お茶の4つの食器がある。班長さんは演習も何もやってないから大して食わんのにやで。

 軍隊は食事に要する時間が決まっとるから、1食、2食は食べられない事もようけあったよ。早い時は1分で食べやなあかんのやでさ。噛む暇あらへん。飲み込むだけ。あれだけはえらかった。私は農家の生まれやでゆっくり食べとったから、飲み込む事なんてできないでさ。食べ終わった後、新兵は班長さんの食器を取りに行かなあかんの。「岡田はちょっとも食器洗いに来やんやないか」ってなるともう駄目なんさ。だから、早いこと食べて行かなあかん。1番早よ食べた者が持ちに行くんやでさ。今日は班長さんの食器を取りに行かなあかんって思った日は少ししか食べやんだ。


戦後の生活

 終戦から半月経って、9月に軍隊から帰ってきました。鈴鹿はね、爆弾が算所や柳に落ちたぐらいの被害しかなかったから、そこまでひどくなかったけど、名古屋、四日市なんかは焼け野原やったね。鈴鹿は田舎やったからまだ良かったん。でも戦後にあんまり整備が進まんだっていうマイナス面もあるかもね。津、四日市なんて戦争がなかったら、あんな立派な都市計画道路はできやんだでしょ。焼けて新地になったから良かったんやに。

 当時は、海軍工廠の工場なんかは、まだ泥棒が入ったでさ、地区の消防団が守衛を行ったの。私もそれで行ってさ。泊まり込みですわ。今やったらボランティアやね。

 帰って来てからは、私は農業に従事しました。物資も何もなくて苦労もしましたね。ガラーンと何にもあらへん。欲しい時は闇で買わなあかん。あの頃の子供は饅頭って知らんだんやに。そんな時代。

 鈴鹿市は、農業ばっかりではいかんってことで、だんだん杉本市長が企業を誘致してったでしょ。鈴鹿は田園都市っていわれて、田んぼばっかりだったでさ。ここも鈴鹿市須賀町ってなったん。町ってどないなるんやろって思ったね。びっくりした。それから本田技研が来てからは、鈴鹿市もグンっと変わったな。あれも杉本さんの人柄やろね。すごく誠実な人で汚職も聞いたことないし、どこいっても杉本さんの悪い評判なんて1つも聞かんしね。


戦争を振り返って

 戦争に行くとね、人柄が変わったみたいになるの。明日は死ぬかどうかわからんでさ。食べ物もないし、シラミは湧くし。明日の命はどうなっとるかわからん、とりあえず今日をなんとか生きれれば、それでいいってなってくのさ。だって、戦友がバタバタ死んでくんやに。そのうち人が死んでいくのなんてどうだっていいようになっていく。戦争だけは口で言うより大きいって言うんやで。教えたろと思ってもあの悲惨さは口では伝えきれやんのさ。(野戦帰りの人の話)

[杉山亜有美]