林静子さん(大正13年生まれ、栄地区在住)

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延岡での戦争体験

 私は大正13年7月31日生まれ、今年で88歳です。えらい年とりましたね。昔は大変でした。鈴鹿には20年前ぐらい、よく覚えていませんけど平成になってからきました。主人は会社を定年になってすぐ亡くなりましたけど、会社にいるときは日本中転勤しました。娘は東北に1人、神奈川の横須賀に1人います。息子が鈴鹿にいますのでこちらに来たんです。

 生まれは九州の宮崎、延岡、旭化成のあるところですね。主人は京都の人でした。戦時中は、九州の宮崎の延岡でしたけど、旭化成がただ1つがありまして、そこで銃とか繊維など作っていました。工場は別々でしたけどね。それをアメリカは知ってたんですね。集中砲撃されました。家もほとんどやられてしまって、焼け野原でした。あの頃を思うと大変でした。命が危ないので逃げるしかなかったんです。逃げる途中に死体がごろごろ。一番可哀そうだったのは、小学校4年か5年生くらいの男の子同士が2人抱き合って死んでいたんです。本当にかわいそうだった。涙が出た。旭化成があったもんで、延岡は全滅でした。私は、結婚前でしたけど、家族はバラバラ。一緒に住めないんですよ。ちゃんとした家があったんですけどね、焼夷弾かなんかを2階に落とされて、父がバケツで水汲んで、まきましたけど、みんな丸焼けでした。空襲警報は、いつも空襲が終わったあとです。遅いんですよ、何にもない時にあとでサイレンが鳴るんです。

 食べ物もない、寝るところもない。どこもないです。ほったて小屋を建てる人もいましたけど、私達はそこまでできなかったから山に逃げました。近くに山に逃げて行って、ほら穴みたいなところがあったから、そこで寝ました。着るものはモンペ。なんにも買うことができないから、親の着古した物をモンペにしましたね。終戦までは山の中の生活でした。本当に大変でした。若い人達に話しても嘘みたいな話になるでしょ。

 うちは農家じゃなかったので食べ物がなかったんです。広い畑もないし、野菜もない。お米もみそも配給もなかったですよ。そこらへんにあるヨモギを摘んで、茹でて食べてました。それだけです。醤油も塩も何もありませんでしたけどね。それが、18,9歳くらいの頃でした。その頃のことがあるから、いまだに骨が弱くていろいろと病気もしました。長生きはしてますけどね。母は45くらいで亡くなったかな。私達が育ちざかりだったから、自分は食べないで、野菜なんかが手に入ると私達に食べさせました。「なんでお母さん食べないの?」と聞いたら、母は食べたくないと言ってましたけど、後で考えてみたら、私達に食べさせるためだったんですね。母は早く亡くなりました。最後は骨皮でした。結局、自分は食べずに私達に食べさせた。骨だけで死んじゃいました。妹が2人いましたけど、食べ物がないせいか栄養失調で死にました。弟も早く亡くなりました。栄養失調でしょうね。兄は、兵隊にとられて、中国かどこかに行ったんですね。そしたらすぐに負傷して、病院に入ったで命は助かったんですけどね。でも長生きはしませんでした。やっぱり食べてないからね。だから、兄弟はみんないないですね。そのことを思い出すとよく生きてこられたと思います。

 私は学校を卒業してからね、旭化成に勤めたんですよ。16歳くらいかな。私、運が良くってね。事務所に入ったんですよ。現場に人を案内する仕事でした。食べる物から、着る物から、銃も何でも作ってましたね。いくつも離れ離れに工場があって、一回りするのに1日かかんです。

 ある日、敵機が来るから、早く帰りなさいと言われ早く帰ることになったんですね。そしたら帰る途中で敵機に遭っちゃって。編隊を成して、わーっと来たんで、走って逃げました。そしたら飛行機が真上にきて、一機だけ、すーっと降りてきて、私に向かって鉄砲向けてたんです。外人さんの顔もみえました。やられると思って走って逃げたんです。そしたらすぐパパパパとやられました。ゆっくり歩いとったらやられてました。それははっきり覚えてます。もうやられるかと思いました。必死になって走ったんです。女、子供見境なし。旭化成があったもんで、集中して敵機が来たんですね。朝も晩も。家も全滅。ここらへんに住んでいる人は全然そんな話しないでしょ。場所によって違うんやなと思って。延岡は工場地帯ですからね。

 空襲が多かったのは18,9歳の頃。帰る時に敵機が来てあわてて家があるところまで走って逃げるんですよ。上見ながら。顔が見えて。銃が見えて。朝に晩にしょっちゅう来ていました。15,6機くらいかな。道端に死体がごろごろ。ひどかったからね。

 玉音放送は、お触れが回ってました。玉音放送があるのどうのこうのといって触れが回ったんですね。でも、私は聞いた覚えがないんですね。ただ、戦争負けた、負けたと言ってたから、なんで勝つ勝つと言ってたのに負けたんかなと思って。でも負けて良かったと思いましたね。負ければ誰か助けてくれると思いましたね。苦しくても、食べ物がなくても、寝るところがなくても、我慢すれば日本は勝つに決まっとるからって頑張っとったんですけどね。もうちょっと辛抱したら、日本は勝ってるからって。騙されてたんですね。負け戦を勝ってる、勝ってるといって、嘘ではないと思ってましたけど。


進駐軍相手の食堂に勤める

 戦時中は、外敵が来たら殺されるといって、学校では竹槍の練習しましたね。練習を毎日させられました。先生が拍子とって、突き方が甘いとか言って。笑われちゃうよね。「外人は怖いから竹槍の練習をせないかん」そんなことばかり言ってましたね。強姦されるとか。でも、そんなことは全然なくて優しかったですよ。

 進駐軍はいっぱい来てたんでしょうね。それが、かっこいいんですよ。背がすらーっと高くて。「ハロー」と言うと日本人はみんな逃げるんです。こちらは怖い怖いと思ってたの。でも、外人さんは規則正しくて親切で、子供がいると、チョコレートや食べ物をすぐくれる。本当に優しいの。座り込んで同じ目線で話すの。日本人はそんなことしないでしょ。聞くと見るとでは全然違うのよね。「外人はチョコレートをあげると言うけど、下手にもらったら暴行される」という触れもありましたけどね。なんで日本はああいうことばかり言うんやろなと思いましたね。「ギブミーチョコレート」、それだけはみんな覚えてましたね。女の軍人さんも直立不動して、お礼をしてくれました。私達にする必要ないのにね、向こうからあいさつしてくれました。

 終戦後にね、大阪で働くところ見つけてね。外人さんの食堂だったんです。戦争終わってすぐの頃です。入るときは身体検査が、頭の先から足の先まであるんですよ。虫歯1本あっても駄目。すごい難しかったけど若かったから、なんとか通ったんです。英語はできませんといったけど、「英語はできなくていいです」と外人さんのお医者さんが言ってくれました。

 外国の人は、女の人を上にみるから、私達に会うと頭を下げてくれる。優しいですよ。ご飯の時はね、食堂で椅子のところに行くと、外人さんがさっと来て椅子をひいてくれる。お客さん扱いで驚きました。こっちは働いてるのに。食べるものも軍人さんと同じ。食べきれないくらいいっぱい出るんですよ。女の人だからといって見下げないですね。皿洗いとか掃除とかそういうことはさせない。服を与えられて、靴やソックスも与えられて。服もきれいな花柄の。することは、テーブルのセッティング、スプーンとかフォークとか3本、大中小と分けて準備するだけ。汚い仕事、水仕事も駄目なの。7,8人くらい、一緒に働いている人がいたかな。仕事はじめに行儀よく並ぶわけです。並んで待っていると、外人さんが一人ひとりちゃんとなってるか検査するんですよ。着てる服が曲がってたりすると、ここちゃんと直しなさいといって一人ひとり見て。徹底してますね。

 主人とはそこで知り合ったんです。主人は、そこでコックをしてました。主人は英語ができたんです。「なんで英語覚えたの?」って聞いたら、「自分で本見て勉強した」と。「発音はここで勉強できるやないか」と。だから英語はペラペラでした。日本人ではもう1人いましたね。もう1人の人はお医者さんでした。

 外人さんがお国に帰っていったら仕事がなくなったので、宮崎(延岡)に主人を連れて行ったんです。そのあと、主人は旭化成に入りました。それで、全国を転々としてたんです。

 あの頃が懐かしくて、今でも英語の勉強します。その時の記憶が残っているからね。こういうふうに話をしたなとか。

[今坂三枝]

合併前の天名村役場(鈴鹿市)