宮崎仁さん(大正13年生まれ、井田川地区在住)

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学生時代

 私の生まれは名古屋市ですが、本籍はここ(西冨田)なんです。私の両親は、名古屋で商売をしてましたが、資金繰りが苦しくて親父は豊田自動織機に入社しました。刈谷市に移り、小学1年生から4年生まで刈谷市で過ごしました。その後、親父の転勤で現在の大阪関空で有名な泉佐野市に移住しました。

 昔、私達の義務教育は小学校6年生まででした。それからは中学、専門学校、大学の順番です。中学にも5年制と3年制があり、私は小学6年を卒業し、泉佐野市の尋常高等小学校を2年卒業してから三重県亀山市の亀山実業学校の2学年へ編入学しました。亀山実業学校を3年卒業して、次は京都市南禅寺の近くにある東山中学校の3年にまた編入学して無事5学年を卒業し、実家のある鈴鹿市へ帰ってきました。兵役まで約半年ばかりありましたので亀山市川崎町の陸軍北伊勢飛行場記録係りとして勤務しました。


亀山実業学校での日々

 亀山実業学校に在学中は、勤労奉仕としてサツマイモ掘りやサツマイモ畑の開墾をよくしました。全校生徒が一度にやるんじゃなくて学年ごとでやってました。各クラスとも授業がありますから、隣のクラスが勉強中に僕らのクラスが勤労奉仕に行くとかです。畑は亀山市の羽若にあり、往復はもちろん歩きでリヤカーを引いて鍬、トン鍬、スコップで2,3時間作業してから帰ってきました。その畑は学校のものか、農家のものか私達にはわかりません。

 授業の中に軍事教練が組み込まれていました。教官は少尉ぐらいの鼻の下にチョビ髭のある偉いさんでした。先生として常駐してました。訓練は匍匐前進とか模擬の手榴弾を投げたり、土嚢(約20~30キロ)を担いで100メートル何秒で走れるかとか体力検定みたいのがありました。軍事訓練用の銃も何丁もあり、その銃を持って匍匐前進とか、担いで行進とかもしました。訓練自体は怖くもなく、私達も子供でしたから張り倒されるなんて事はなかったです。軍事教練の評価はなく、成績表には軍事教練の項目はなかったから。戦時中なのでやっていたものと思ってます。


陸軍北伊勢飛行場の記録係り

 東山中学校を卒業して故郷の鈴鹿に戻ってきてから、兵隊に行くための徴兵検査を受けました。私は少し身体が弱かったため乙種合格でした。赤紙がいつ来るかわかりません。その間家でブラブラもできず、幸い陸軍北伊勢飛行場記録係りに応募しましたら合格でした。一応軍属で20歳の時です。記録係りというのは航空兵の兵隊さんが飛行機で飛び上がり着陸するまでの時間を計るわけです。兵隊さんは飛行機にしょっちゅう乗るわけではないので係りは2~3人ぐらいだったと記憶しています。

 陸軍北伊勢飛行場は自宅から近かったので自転車で片道10~15分ぐらいの通勤でした。勤務時間は朝8時ぐらいから夕方5時ぐらいまでだったと記憶しています。強制された事は何一つなく、当時は空襲もありませんし、ノンビリした生活でした。夜は飛行機も飛びません。夜勤も一回もなしでした。あんまり思い出もありません。


津の連隊へ現役入営

 昭和19年10月に赤紙が来まして、津の陸軍連隊へ現役入隊しました。ここ西冨田町からは私を含めて2人が津連隊へ入隊しました。私達は戦時中の教育を受けてきましたので現役入隊は当然のことと誇りを感じていましたので、不安もなく入隊しました。

 津の連隊では、訓練もなしです。予防注射を各種打った記憶はあります。海外渡航の準備注射だったと思います。すぐ外地へ行かされました。行き先はどこか、それが最初の運命の分かれ道だったのです。私達は釜山経由満州方面行きでした。博多港からは釜山経由満州方面行きと南方方面行きと2種類あります。南方方面行きは博多港で輸送船に乗り、瀬戸内海を出て門司港沖でアメリカの潜水艦による魚雷攻撃で7~8割沈められました。私達は博多港から関釜連絡船で無事釜山港に到着し、陸路貨車生活で運良く満州まで北上することができました。

 釜山港から朝鮮半島を北上し、中国の山海関を経由して満州に入り、中央あたりからまたまた同じ貨車生活をして上海、南京、そして「蘇州夜曲」で有名な蘇州へ到着しました。

 それから半年間の初年兵教育が始まります。初年兵訓練とは「生きる」か「死ぬ」かの実戦訓練です。蘇州より西、太湖という大きな湖のまた西にある常熟に駐屯して毎日訓練を受けました。内容の1つに「夜間1人で歩哨に立っていて(隣の歩哨は500メートルぐらい先にしかいません。)敵に襲われたらどう対応するのか・・どうして味方に通報するのか・・・」などあります。そんなに辛いとは感じませんでした。苦労は当然、帰還できるなどと考えたことはなかったです。

 その中で、1つだけ「運命」を実感する事件がありました。私達は毎日が初年兵訓練の連続ですので終戦の日を知りませんでした。毎日ある訓練が終戦を境にしてなくなりました。不安と安堵が交錯した毎日でした。だから終戦は1週間から10日間ぐらい全然知りませんでした。事件は終戦の前夜に起きました。

 みなさんもスパイ合戦をご存知だと思います。我方の軍隊の中にも敵のスパイがいるし、敵方の軍隊の中にも当方のスパイが潜り込んでいます。終戦前に私達の中隊に、敵方にいる我方のスパイから「どこどこに敵がたくさん集結しているが、今のうちなら殲滅できそうなので殲滅せよ。」との情報がきました。だから終戦の前日、8月14日中隊長以下30名が組織され討伐に夜間出かけました。しかし、今考えてみますと、その情報は偽の情報でした。中隊長以下30名は途中で敵兵の待ち伏せに遭い全滅しました。しかも終戦の前日にです。悲しい出来事でした。1名だけ残ったと聞きましたが消息不明です。これは悲しい運命です。


終戦

 終戦は前にも少し話しましたが、8月15日以降毎日実施されていた軍事訓練がなくなり毎日何もすることなく「昨日もよかったなぁ」とか「今日もよかったなぁ」の連続でしたが、そのうち終戦を聞かされました。「あぁこれでもう内地へ帰れやんなぁ」と観念しました。中国、中支のど真ん中にいるわけですから。中隊全員で100~150人ぐらいだろうと思います。中国人の家庭へ婿養子に行った話も聞きました。終戦後中国の人々から敵愾心で見られたり、暴力を受けたりした事はおかげさまでありませんでした。

 帰国の命令が来て、南京に集結するようになり、武器は常熟で武装解除されました。常熟から徒歩で約10日間ぐらいかけてやっと南京へ到着しました。途中では田んぼの中に寝たり、中国人の強盗に遭ったりしましたが全員無事でした。南京の抑留所での生活は1日1食だんご汁1個の生活でガツガツしてました。当然栄養失調です。タイプは痩せるタイプ、太るタイプの2種類で、私は太るタイプでした。飢えを凌ぐ方法をみんな考えており、外出は自由だったので各人に配給された靴下を持っていって食べ物と物々交換して少しですが一時の飢えを凌いで生活していました。

 抑留所は6~8畳ぐらいの間に20名ぐらいで一緒に生活です。真ん中に廊下があり、両サイドに分かれて2段式となっています。ベットは板張りです。風呂は入りませんので、臭いし、狭いし、寒いし最悪の生活でした。夜間一度トイレに行くと帰ってきても元の場所は人でいっぱいで、やむなく廊下にごろ寝です。幸い軍服は夏服、冬服持っていましたので寒くて死亡することはありませんでした。人の息と体温だけでも少しは暖かさを感じました。

 次に、南京の抑留所から上海の抑留所行きの命令が来て、またまた上海まで歩きました。しかし帰国の話は一度も聞いたことはありませんでした。上海での抑留生活の思い出はありません。期間が短かったのかもしれません。

 上海からアメリカのリバティー船に乗り、行き先は日本の博多港と初めて知り感慨無量でした。うれしさで今までの苦労も吹っ飛びました。まさか日本に帰れるなんて。知らされていませんでしたから。栄養失調の太った体で昭和23年3月待ちに待った博多へ帰ってきました。

 博多港では少しばかりのお金と鈴鹿までの国鉄切符を復員局の人からいただきました。夜は博多の町を散策した覚えがあります。

 博多から汽車で鈴鹿の実家へ無事到着しました。事前に連絡はできませんでしたが、両親と再会でき、よろこび合いました。

 私は農業の経験はなくて、復員後、親類の兄貴分と自営業を半年ほどやり、その後は名古屋の進駐軍でラジオ等の修理などをするラジオリペアーの仕事に従事していました。途中からNTTへ紹介され、20数年勤めあげて無事退職し、次に自動車電話(株)、ドコモを経て最終的には専門学校で6年間教鞭もとり80歳でリタイヤしました。

[※杉山亜有美の原稿をもとにご本人が表現を改めた]