戦争が始まる
私が小学校高等科1年の時に戦争が始まったんです。中国、昔の支那やわな、そこと撃ち合いをして戦争がぼつぼつ大きなってったんや。日本軍はどんどん攻めてって南京を陥落したんや。その時には、ここでも提灯行列をしました。私は寺家から鈴鹿海軍航空隊の正門まで軍歌を歌って、蒋介石の似顔絵を描いて、それを叩いて行ったんです。その時は誰でも暇な者はみんな出てって、提灯を持って軍歌を歌ったりして正門まで行ったんですよ。正門には司令官がおって、その人と「万歳万歳」をして帰ってきたんや。そんなことが戦争始まってすぐにあったんですな。その頃はね、「いよいよ支那へ攻めていったな」ってみんなで言うてましたでね。
三菱航空青年学校へ
私の生まれは寺家で、親は型彫の職人やったんです。でもね、私の親父が「型職人は不景気があるからもっと勉強して就職せい」って言うんで、私は白子の尋常高等小学校を卒業したら「大連の警察に行く」って言うてたんです。でも、学校の先生が止めたんですよ。担任の先生が内緒でね、「俺はそんなところへはようやらんで三菱に行け。三菱なら勉強ができる」って言ってくれたんです。私は名古屋の三菱航空機技能養成工に合格しました。三菱では本科4年と研究科1年行って卒業したんです。というのも、三菱航空機青年学校は三菱航空機製作所の企業内学校ですわな。半分学校で航空機の勉強をして、半分職場(航空機関係)で作業をして、両方の成績によって給料が決まったんです。ところが、私らが昭和14年に入社した時に、先生が「残念ながら英語は禁止されました」と言うんです。英語ができると思とったのに「本年から英語は廃止になった」と言うんです。
軍隊へ入隊
その後、三菱を卒業してから徴兵検査があって、それが合格になって、何月どこどこへ入隊すべしっていうハガキが来たんです。あの頃は国の規則で20歳になるとみんな徴兵検査を受けてました。これは赤紙とは違って現役でしたんで、普通の軍用ハガキで来たんです。
ここらの人は大体が久居へ行ったんですけど、私は昭和19年12月1日に福岡の大刀洗(たちあらい)航空教育隊へ航空技術兵として3か月間行くことになったんです。教育隊やでね、そこで飛行機の事を習ったんですわ。まぁ学校やわな。古い人間で、軍人として優秀な人が教育係におって、その人に教えてもらってたんです。
大刀洗が空襲でやられたんですわ。その時に私らは対空射撃に出とったんです。「また練習か」って言うてたらそれが本物で、アメリカのB29が飛んできたんです。それで、格納庫の近くに先輩が掘っていった防空壕があったんで、中隊長が「そこに入れ!」って言うてみんなで入ったんです。近くにおった機関銃の練習をしとった連中が(戦闘機を)撃ったんやけど、次に来たB29の爆撃で全員戦死したんです。私らは攻撃せずに命拾いしたんや。
昭和20年の3月に今度は東京の立川航空隊へ行くことが決まったんです。立川に行くなんて私1人だけでした。他は違うとこに行ったんです。
普通は練習機(高練)っていうのは射撃とか通信とか9つの機能が付いとるんやけど、それを特攻機にするために放りだして、爆弾1つ抱いて突っ込むために改造した一式双発高等練習機なんです。終戦に近くなると燃料がないから飛行機があっても飛べないんですよ。
立川でも空襲に遭って、空中退避をして立川の近くの太田っていう飛行場に行ったんです。その後は、相模ヶ原、熊谷、岐阜の各務ヶ原、三国、米子とか転々としてね。その時、すでに私らは朝鮮半島へ行くことになってましたんで、ここらによって訓練していったんです。米子からは朝鮮のソウルの近くの水原ってところに訓練に行ったんですよ。大きな声では言えないけどね、私の隊長は頭が良かったから、朝鮮半島はアメリカに空襲されないからってことで朝鮮半島に行って訓練することになってたんです。
朝鮮半島に渡ってからは、初めは水原にいて、開文、仙徳飛行場で訓練を受けて、その後に清津に行きました。清津は満州の近くやでな、そこに行ったらちょっと情勢が悪い。そんなことをしてたら終戦になったんです。私は朝鮮半島で玉音放送を聞きました。その時は「おい日本が負けたぞ!」「そんな、ばかなっ」って言いおったんです。玉音放送を聞いた時は、残念やったけど腹切ったりとかそんなことは考えなかったですよ。終戦になったら水原あたりで朝鮮の国旗がひらめいとったんです。つまりね、前から準備がしてあったんやな。もう日本が負けるってことはわかっとったんさ。
終戦後の日本
終戦になって、私は朝鮮半島から博多へ連絡船で帰ってきたんです。博多に着いたら女の人がいなくてね。「なんでおらんのや?」って聞いたら「アメリカが怖いで山に隠れとる」と言うんですよ。
昭和20年10月15日に白子に来た。白子に来て、しばらくしたら、爆弾や飛行機の処理をするからその手伝いをしたってくれと言われたんです。郡山やと思うんやけど、はっきり記憶はないんや、こちらの方の山に洞窟みたいなのが掘ってあって、そこから爆弾を出してトラックに積んだ覚えはあるんですよ。それを鈴鹿航空隊の飛行場に持ってきて、飛行機とかみんな集めて、導火線を引っ張って、アメリカが爆破したんやと思うのや。爆破した後に戦闘機の車輪なんかがあると、百姓の人らが目を盗んで持ってって、板車なんかにつけたりしてたん。あんなもんは払下げなんかないからね、みんな勝手に持ってったんや。爆破した時にアメリカが日本精神注入棒っていって、鈴空の各班の廊下に吊るしてあって悪いことしたやつとか、言う事を聞かないやつの尻をこれで叩いたんですが、それを持っとったから、わしがくれって言って貰ったんです。
町の様子はね、千代崎と白子の間に第二航空廠の寮があったんやけど、それをアメリカが遊郭にしたんですわな。白子の駅も、昔は東だけで西はみんな田んぼやったんや。駅ではアメリカ兵が日本の女の子とみんなが見とる前でキスしたりしてましたね。白子の町には、飛行場を管理するためにアメリカの進駐軍がおったから、ようけアメリカ兵もおったんです。日本兵は銃でも大事にしとったけど、アメリカ兵なんかは銃もほったらかしで、鉄兜も尻に敷いたりしてましたね。
まあ、とにかくアメリカの進駐軍、それとMPが白子の町を見回っていた。戦争中は悟真寺の突き当たりのところ、今のひかり幼稚園の所に憲兵分隊ってのがあって、兵隊を取り締まっとったん。警察の手に負えん一般の人も取り締まった。