森下勝さん(大正13年生まれ、河曲地区在住)

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神戸中学の思い出

 昔の5年制の神戸中学には、ここ(山辺町)から1,2,3年生は自転車で4,5年生は徒歩で通いました。当時は学業もさることながら勤労奉仕とか体力作りに力が入っていたように思います。その上、武道とか軍事教練とかありまして、そういう鍛練が主やったね。所謂、人間を鍛えるというか、そんなんでしたね。英語とかそんな勉強は二の次でね。なんせ神戸から熱田神宮まで3食分のおにぎりを持って、行軍で歩いたんですよ。国道1号線を。特に大寒に入ると早朝からの寒稽古、夏は若松の海で遠泳。校則に反すれば退学。厳しい5年間でした。

〔勤労奉仕〕

 4,5年生の時は、奉仕作業が多くなってきました。記憶にあるのは、今はもう家が建っておるけど、神戸のマツダていうスーパーがありましたね。当時は田んぼで、そこで田植えした覚えもありますし、出征された家にも行きました。その頃は、授業はあるのはあったけども、主にそういうのが中心やったですね。殊に3年生以後は。箕田とか長太の方まで。草取りや桑摘みをしに行きました。


三重師範学校から教員へ

 父親が教員をしていた関係で、子供にもその道を、と思ったのか三重師範を勧められました。全寮制でなお一層厳しい生活でした。師範の3年生の時は工場通いでしたね、楠の工場へ。授業もなんにもない。僕らは造るということはできませんので、簡単な仕事をしてました。鈴鹿海軍工廠でもそうでしたよ。先生になってから河曲小学校の高等科の子供を連れて行きました。三重師範は3年ですけど、2年半で卒業でした。昭和19年の秋に師範を卒業して、昭和20年4月から兵隊に行ったもんで、その間に6か月間、河曲小学校にいたんですよ。6か月間には、今はないモールス信号と手旗信号を子供に教えていました。その後兵隊に行ったんです。


陸軍生活

〔赤紙以前に志願〕

 昭和20年の4月5日です。召集になった。赤紙はちょうど1週間くらい前にきたんかな。赤紙がきた時は、みんなにくるもんやで、「おお、きたか…」っていうくらいです。それまでに僕はね、どうせ行かんならんに決まっとるから、兵隊を志願したんですよ。すぐにちょっと偉いさんになれる特別甲種幹部候補生っていうのがね、あるんですわ。身体検査があって、私は乱視で目が悪いもんで、はねられてしまったんですよ。兵隊の検査でも私は第二乙やったんです。子供の頃よく病気しましてね。それで不合格で。試験に通った者は学校へ行かずにその時から軍隊へ行ったわけ。それで私は通らんだがために6か月教員をしました。通った者はね、一生懸命に浜松で訓練して。中には広島へ行って原爆で亡くなった人もいます。気の毒やね。私も通っとったらえらいことやった。通らんだ時には本当にさびしかったけどね。

〔入隊して答志島に〕

 陸軍に入隊してからは、久居に1週間ほどおりました。その後、阿漕より汽車で目的地に向かいました。昔の汽車は鎧戸っていうのがあって外が見えないんですよ。だからどっち向いて走っとるかわからんのや。全部蓋しとる。そして降りたところが、見覚えのある鳥羽でした。その当時から鳥羽は知っとったからね。鳥羽で降りて、そしたら今度は船に乗れとのことで。それで答志の島へ向かいました。答志の島は、師範の時に臨海実習があってね、桃取で数日間旅館に泊って、あそこの海岸にいる貝やとか岩石やとか、夜は夜光虫。ああいうものを集めて勉強したんですよ。だから答志島はよく知っとったんです。あぁ、ここならいいわ、と安心しました。ところが、これが大きな間違いでした。

〔理不尽な軍隊生活〕

 それからが大変だった。本当にもうね、話もしたくないくらいやった。そこで僕はね、こんなことを思ったんですよ。これが日本の軍隊かと。こんな利己主義なとこはないわ。自分だけよかったらええの。戦地の方ではどうやったか知りませんよ。もうね、1つ星が多いと何にもせんと遊んどる。こんなことでは戦争には勝てん、と思ったな。ただ答志では魚が食えたこととね、アワビやサザエも。自分で飯盒で炊いて食べられるの。それだけがよかった。もう食べる事だけ。食べることと、人より多く寝る事だけ。何とかしてサボって寝ようとした。防空壕入って1日寝とったこともあるけど。

 階級は同じでもね、1週間でも先に入った人は古兵ですわ。威張っとる。こんなに差別される社会はない。僕は、これだけは1番忘れんことはね、私は小学校に勤めとったでしょ。あの当時、小学校は女の先生が多かったわけですよ。それで慰問の手紙がくるわけ。封書で女の先生から手紙をもろた。班長が中開けてそれ読んで、「お前、こんなもんふざけとる。」って言ってビンタもらいました。それからはもうね、「手紙くれるな」って。連絡しましたよ。それは本当に情けなかった。人の手紙読みやがってって思ったけど、文句は言えやん。それは今でも痛切に心に思うことです。

〔護京部隊の作業〕

 僕らの部隊は護京部隊っていうんですよ。要するにB29がね、爆撃に来る。その進路上がアメリカ兵が上陸する場所やっていうことで、我々は答志におったわけですね。「B29が志摩半島上空を…」ってよう聞いたもんです。だからそこからアメリカ兵が上陸するって思ってたんですね。

 そうして何をしておったかというと、答志やあの辺は、岩石でしょ。それで海側は崖でその上に木が生えとる。その岩に穴を空けるわけや。これがすごくつらい仕事でした。一切機械がない。まず1メートルの穴を空けて、そこにダイナマイトを入れる。ちょうどね、横幅1間、高さが大体2メートルくらいの格好のトンネルを掘っとったんですよ。山の裏から海岸の崖に向かって穴を掘っとった。それで銃眼って穴を空けて。海から船がやって来たらそこから撃つためにね。この仕事が不衛生で苦しい作業だった。訓練が終わってからですからね、夕飯を食べてから夜の12時頃まで仕事しに行くわけ。それを3か月くらい。そしてね、その当時はアメリカ兵の火炎放射にやられとったでしょ。だからね、火溜まりっていうのを創っとったんです。まっすぐじゃなくてギザギザに掘ってくんです。それだけは考えとったな。それにだんだんと奥へいくと暗くなりますやんか、電気がない。当時石油ランプがあったでしょ、あれをつけてやるもんで、出てくると鼻が真っ黒。空気が悪かったんやな。それから兵舎(小学校)へ帰って寝るわけですよ。本当につらかった。でもね、狭い場所だから5,6人が1組で交代しながらの作業なので、1人しか仕事ができやんのや。その間は腰かけて居眠りできたのが救いやった。ちょうど、1時間から1時間半くらいで1メートル掘れたようです。それを5つ空ける。上に2つと下の方に2つと真ん中に1つ。そしてそこへダイナマイトを突っ込んで、導火線をひいて、逃げるんですよ。それで「ドカン」と音がしてから10分か20分くらい待って中へ入っていくの。すると崩れとる。その崩れた岩石をモッコで外へ運び出す。この作業の繰り返しでした。

〔休暇で鈴鹿の我が家へ〕

 7月の中頃やったかな、1日休暇をもらってね。1泊2日でね、家に帰ってきたんですよ。そうしたらね、我が家の蔵に兵隊のものが隠してあったの。石薬師の気象観測の部隊の通信機なんかが蔵に入れてあった。それから家と土手の間に、飛行機の主翼の一部分が置いてあった。隠してあったんやろな。

 1泊して翌日、鳥羽に帰ろうと思って河原田の駅へ行ったわけ。河原田の駅で汽車を待っとった。そしたらその時に、鈴鹿海軍工廠の方へ爆弾が落ち、えらい音がしてね、思わず駅で腹這いになりましたわ。それの流れ弾が柳や算所に落ちて。怪我された方があったようです。結局、あれは工廠から逸れたんやね。それに遭うたもんでね、列車が遅れて来る。しばらくして汽車に乗って亀山まで行く。亀山から今度は伊勢線やね、鳥羽へ行くんやで。そしたら津が空襲になっとる。それで汽車が行かないということで、また家へ戻ってきた。だから家に2晩泊れた。その代わり翌日向こう(部隊)に帰って怒られたよ。

〔終戦間近の答志島での生活〕

 入った時は星1つやろ。えらかったけど、もう人が寝てから勉強してね。それで幹部候補生の試験を受けた。7月に合格したけど、何もならんだ。それでも上等兵にすぐにしてもうて、星が3つになった。しばらくすると、今度は兵長になるんですわ。金筋が1本つく。でもそうなるまでに終戦。もう8月に入ったらね、何にもしなかったですわ。あれ不思議やった。「おい、なんでやろの。今日も何もあらへん。」って。訓練もなかった。軍の上層部の方でなんかやってたらしいですね。

その間も答志にはおったの。食べるものを探してね。あそこはコウナゴっていうのがようけ獲れるでしょ。それをね、漁師が大きな釜で炊くんですよ。そうすると表面に魚の油が浮くんです。それを掬ってきてね、あれで天ぷらができるんですよ。それを飯ごうへ入れて、サザエをフライにして食べた。サザエを獲るのは女の人だけで危ないけどね、ごく近くの海岸だけ、ちょこちょこっと獲っては、すっと帰る。それで「兵隊さんわけたろ」っていうことで、バケツで持ってきてね。それを買うのや。いくらやったか忘れたけど、安かった。ちょうど和具の山の上にね、アメリカの潜水艦の監視所っていうのがあったんです。そこで、2,3人ずつ兵隊が当番で、潜水艦が伊勢湾に入ってこないかを監視しとったわけ。そこで料理をして食べていました。

 軍隊では上下の関係がひどかったことと、その人の人権っていうのが全く無視されたってことを覚えとる。軍隊に入って初めてわかったな。中ではね、「戦争になったらな、前からだけ弾がくると思ったら間違いやぞ」って。班長なんか先頭になりますよね、「あいつ撃ったれ」って後ろから撃ったり。それで戦死しとる者がおるの。普段から憎まれとった者は後ろから撃たれる。そんな話も聞きました。

〔終戦と鈴鹿への帰郷〕

 陸軍は答志小学校におったんです。答志に行った陸軍は中隊が2つあっただけやでね、100人くらいとちゃうやろか。なんせ小学校の運動場に全部並んで、最後の天皇陛下の終戦の放送を聞いたんやでな。

 玉音放送もはっきりわからなかった。戦争が終わったみたいやのうってくらいやった。ぱたっとアメリカの飛行機が来なくなって、翌々日くらいに仲間の者から終戦を知らされた。それから私は栄養失調で病気になった。そうして久居の陸軍病院に入ったんですよ。それがまた悪かった。薬1服もくれない。ただベッドに寝とるだけで、10日間寝とったの。それで逃げ出したんや。みんなでな、こんなとこにおってもあかんって。1日に重湯1杯です。必死の思いで電車に乗って、神戸の駅に降りて、私の親父が勤めとった場所へ行ったわけ。そしたらその日は日曜日で親父はいない、と。そこで留守番してみえた女の方が、「私がおじさんのとこへ言ってきたろ」ってことで行ってくれた。それで親父が自転車で迎えに来てくれた。僕の姿を見て、「これは家へ連れてってもいかん」って、すぐに病院へ連れてってくれたんです。ところが日曜日でお医者さんが不在。それでも家から自転車で来てくれた。私が中学生の時に1回入院したもんで、よく知っとる方で。そのお医者さんが私を診て「これはあかん」って言うて。昔は点滴なんてあらへんで大きな注射を太股へ入れるんです。これが痛いんよ。それで「3日もったら助かる」と親に言われたそうです。僕はもうそれで安心したんやろね。意識を失ってね。それで今まで助かって生きとるもんでさ、自分ながら不思議です。


戦後教員に復帰

 終戦後6か月ほどで健康を取り戻し、学校へ帰ることができて安心しました。でも何を、どうして子供達に教育していいのやら全くわかりません。第一、教科書が無い。しかも私自身は戦中教育されてきた人間です。毎日が不安な1日でした。今では考えられない昼の弁当が「サツマイモ」。でも子供達は明るく元気だったです。当時の子供が70歳を超えて、おじいさん、おばあさんになっている。今年の年賀状にも「先生に一度お会いしたい」と何人かいただきました。こんな嬉しいことはありません。

[小川真依]