加藤久子さん(大正14年生まれ、国府地区在住)

111 ~ 113

海軍工廠のタイピスト

 私は88才。大正14年の丑年です。生き残った兄弟は5人、私はその3番目、残りはみんな男でした。昭和22年10月に結婚して国府に来ましたが、それまでは庄内に住んでまして、旧姓は原田といいました。一回り以上離れた長兄は海軍中尉でした。国学館ていう川崎(現亀山市)にあった学校を卒業して、海軍に入隊して、舞鶴無線電信所に行ったり、横須賀行ったり、呉行ったりしていました。

 私は、庄内の尋常小学校を卒業して、青年学校の夜学に行きました。そんで、昭和16年か17年頃やったと思いますけど、楠の東亜紡の染色事務室に勤めました。でも馬が合わんていうんでしょうな、すぐに辞めて家に帰って来てしまいましてな、タイピングを習って、タイピストとして海軍工廠に勤めました。佐野先生ていうそろばんの先生がおりましてな、東亜紡を辞めて帰って来てそろばんでも習おかと思ったんですが、佐野先生がタイプライターが空いてるって言うんでタイピングを習ったんです。それで、出来たばかりの海軍工廠の総務課でな、タイピストのテストを受けましたんやに。佐野先生がな、付き添ってくれて、ストップウォッチでタイム計ってな、そういうテストでした。それで合格して就職しました。

 うちは庄内でしたから、平田の工廠まではちょっと通えませんやろ、自転車もないし。そんで、工廠の正門の十字路の会計と医務室と総務からちょっと行ったところに住吉の寮があったんで、そこに入ったんです。同じ寮の他の課の人は、職場と寮の往復で自由に工廠の外へ出ることなんかできませんでしたけど、私ら会計課の人間は公用証を持っとったで、いつでも出られました。頼まれてトマトやなんや買いによく外に出てましたわ。

 私が入廠した当時は、まだ鈴鹿海軍工廠ではなくてJ廠と呼んでました。暫くして、鈴鹿海軍工廠って名前が決まってね、それまで「J廠」って打ってたのが「鈴鹿海軍工廠」に打つ名前が変わったのね。それでよく覚えてます。

 そんなこんなで海軍工廠に1年半くらい勤めましたわ。でも、食事が嫌でした。奉賛日に、会計の食堂でコッペパンに梅干しがでたときはな、梅干しを「これがジャムなり」、お茶を「コーヒーなり」、そう言って頭で思い込んで食べたりしたのさ。そうやって我慢して食べてたんですが、でも、ある日、食堂での食事にな、水菜と揚げが入ったんが出て、そこにミミズが入っとったん!あれがショックでなぁ。つぎの休みに家に飛んで帰って「お母さん、あんな所にはもう行けんわ」って言うて泣いてな、お母さんからはな、「そんな、辞めたら挺身隊で取られるかもしれんでな、ちょっと待て」って言われましてな。お母さんが北伊勢航空隊の人事をやってる人のところに行ってな、米を一俵積んでお願いして、雇ってくれることになったんで、辞めましたんさ。


北伊勢航空隊

 それで終戦間際、19歳の時に北伊勢航空隊の補修隊事務室の企画課に入ったんです。第九格納庫というんが故障した飛行機の救急工連でした。第一式戦闘機の修理の命令がでるので、その内容の書類を書いて、水島少尉の判を捺して出すんが仕事でした。機体番号と発動機番号を調べて、水島少尉に提出して、それを命令が出たら処理するっていう仕事してましたん。九格(第九格納庫)では、大井大尉が一番上で、私は水島少尉の下で働いていました。私が入った時にはあまり兵隊さんはおらへんだな。働いてるのはお寺のおっさんと女の人とな、そんなんでした。そのうち何やらって部隊が北伊勢に編入されて来ていっぺんに古賀中尉とか北島准尉なんかが入って来たんやったな。

 私は第九格納庫のことしかわからないですけど、故障したらいろいろな飛行機が入って来るんでな、修理の飛行機の中には特攻の飛行機もあったですよ。特攻の人らはね、赤のマフラー巻いとるもんは1週間以内に特攻へ行くの。紫は少し訓練が残っとるの。白は、まだ訓練があんの。私らも特攻に出て行く時は手が空いてたら見送れって言われてね、よく見送ったわ。どこにいったかは極秘やで知らんけど、みな「特攻や」って言ってましたわ。飛行場の中では割に行動は自由でしたけどね、でも、将校集会所の中とか飛行機の近くなんかは絶対にカメラ持って入れなかったわ。写真撮ってくれって言っても絶対駄目やったわ。戦争中やからね、そういう規制はありましたんさ。

 北伊勢航空隊で空襲にもあいましたんさ。空襲警報が鳴ったもんで、掩体の邪魔んならんところに防空壕が掘ってあったんで、そこに避難しました。けど、ちょっとも来やへんもんで、階段上がって外を覗いてみたら、ロッキードが宮さんの森から超低空飛行して来とるやないですか。ヤンキーの顔まで見えたに。その瞬間、古賀中尉が「原田ぁ、伏せろぉ」と叫んでね、本当にそりゃもうびゃ~っと飛びましたに。階段の上からダイビングしましたんだ。その時はもう駄目だと思いましたんさけど、生きてましてね。「久子ちゃん大丈夫なん?」って同僚に言われましたけど、何ともあらへんだ。怪我もしとらんだ。でも、そのロッキードが亀山で汽車をやったんですわ。あと、海軍工廠を狙って逸れた弾でね、山で草刈っとった女の人2人やられたって。あのヤンキーの顔は今でも夢に見ますに。ほんに命からがらやったでな。

 そんで補修隊事務室が危ないちゅうことで、それから直にな、四辻にあった天理教に疎開しましたんさ。飛行機もみな山に疎開してな。燃料も分散させました。でも。九格(第九格納庫)に修理の飛行機は入って来ますで、現場事務所が要りますやろ、山の中に小さい家を建てて事務所を作って、そこに九格の掩体を作って、木を切ってな、見つからんように上をカモフラージュしたん。そういう掩体やったですに。


終戦

 北伊勢飛行場では、落下傘は命の2代目っていうくらいのもんで、真っ白で正絹で大事なもんでした。玉音放送は、8月15日の12時に掩体に集まれって言われてな、行ったん。何かイベントあるんやろかと思って見に行ったんやけど、そしたら、掩体の前に机があって、その上にラジオひとつ置いてあるだけですやんか。整備隊から補修隊から特攻隊から食堂の者からみんなそこに集まっとったん。ポーンてラジオの音があってな、今から天皇陛下の大詔があるっていうんで、「え?一体何なん?」って思ったね。そんで、玉音がはじまる前にさ、白い旗を掲揚したんさ。「まさかぁ」って思って、胸がドキってしたの。そしたら、ポーンさ。そんで放送が「ガガガ」て言うて何やら言うてんのしか聞こえへんのさ。で、「え…ほんなら負けたん?うそー。」って、みんながわーっとなってね。誰かがそん時、マフラー取ってぶつけたん。そしたらみんな剣取ってぶつけたりしだして、まぁ泣きやった。それから「無条件降伏をした」と説明があってな、興奮しとったで誰が言ったか覚えがないけどさ、そりゃもうショックでさ。特攻の人らのショックはすごかったやろな。

 そんで「女性軍は集まれ」と言われて、寄ったらな、目の前であの落下傘を割いてな、「女性に」って言うんさ。それで「首くくれ」って言われるんやとわかった。「若いものはみんな抹殺やで大和撫子は女々しい振る舞いすることならん」て言われてさ、みんな抱き合って泣いた。命の次の落下傘を眼の前で割かれてな、夢幻と思った負けが本当やとわかって、本当に血の涙が出る思いだったに。本当に、勝つもんやと思っとたし、それしかなかったもん。東条英機は勝った勝ったと言ってるやんかぁって思ったね。勝つもんやと思いこんどったもんな。銃後の守りとか言うけどな、その場にいたもんしかわからん。百聞は一見に如かずと言うけどな、そのときに携わらな、この気持ちはわからんやろ。

 その日はそれで家に帰って、その次の日、飛行場に行ってな、将校集会所にお茶をいつものように貰いに行ったらな、みんな寄っとるんさ。それで「見てみぃ」って言われて覗いてみたらな、粗(あら)筵(むしろ)の上で人が唸っとるの。「ああああ」ってな。柏木少尉って人さ。その人、堅物なん。負けたっていうショックでな、救急工連の壊れた飛行機に乗って飛んでったんて。そんでどこやらで落ちてさ、夜の内に連れて来られたんてさ。「天皇陛下万歳」って言うて唸ってんかと思ったら、「お母ちゃん会いたい~」って言うて泣いてるんや。そんで亡くなったけどな。人間なんてそんなもんさ。どんな堅物でも、いざ死ぬ時には天皇陛下よりお母ちゃんさ。

 そんでさ、いっつも綺麗になっとる剣も銃もさ、散乱しとるしさ。特攻やから酒もウィスキーもチョコレートもあるわさ。それを飲んでさ、兵隊が荒れてるわけ。いじめられてたもんはさ、それまで「少尉殿」「軍曹殿」って呼んどった人を、「さん」やら「君」やらで呼びだしてさ。終戦で1日で変わったんさ。歯ぎしりしても、もう怒れないわな。

 鈴木軍曹殿って人がいてな、「訓練や。」て言うて部下に殴り合いをさせとったんさ。その訓練があると顔が黒地になるまで腫れた兵隊が事務室に入って来るんでさ、すぐわかるの。「何でそんなことすんの。」って鈴木軍曹に聞いたことがあったんやけど、「こんだけのことせんと人間できへん。」て言われたわ。そんな教育やったに。そういう風に偉そうにしている人が1日で立場がコロッと変わってしまったんさ。

 それから、残務整理せなならんから、分散して疎開してたところに行ったんで、その後はどうなったかは知らん。もう兵隊に会うこともなかったな。それで1か月くらいして解散になったわ。

 時間が経つとな、騙されとったっていう気になるな。国民を騙しとったんや。そういう思いになるんや。東条英機なんかは死刑にされて当たり前やな。

 戦争中は18人家族になったん。父の弟が子供を連れて、姉さんも3人連れて、兄の子も3人やろ。姉さんはご飯用意すんのが大変やったろうな。2町田んぼ作っとったから食べるのは困らんだけどな、用意すんのが大変やったと思うよ。兄さんが船長で出征することになってね、呉が空襲で狙われるっていうんで、公用証を貰って、長兄の子3人を迎えに行ったこともありましたわ。次兄と一緒に行ったんやけど、大阪が爆撃食っとんで、綾部の方を回って姫路通って、呉まで3日かかったわ。リュックにいっぱい食料をいれて持って行ったんですけど、それを3日でほとんど食べてしまいましたわ。子供を3人引き取って、すぐに兄のお嫁さんもこっちに来ましたから、そりゃ大家族だったんですよ。終戦後は仕事には出んで、青年団やらな亀山の地方事務所に行ったりな、遊び歩いとったん。「緑と土」っていう本作ったりしてたんさ。そんで昭和21年の4月にお爺さん(夫)が復員してきて、10月に結婚して国府に来たんさな。

[代田美里]