学生から教員へ
私は、鈴鹿郡牧田村大字甲斐の大農家で生まれました。上に女4人、下に男1人の5人の兄弟の3人目(中くされ)でした。牧田小学校は、先生も生徒も少なく、講堂は隣の役場の2階の畳の大広間でした。地震の時、今も運動場の東の端にある大きな楠の下へ全校生徒が避難したことを覚えています。私のクラスは男女併せて27人。女の子は6年生で卒業して東洋紡績へ働きに出される子もおりました。その頃は中学校(男)、女学校(女)へ進学する子は1人か2人でごく稀でした。高等科2年で卒業、学校はこれで終わりでした。
姉2人も高等科2年を卒業し、家の農業を手伝っていました。その頃に戦争が始まり、2人とも徴用にかかり、工廠へ働きに出され、父までも徴用で工廠へ土方仕事に引き出されました。私は徴用に引き出されるのが嫌で教師にでもなろうかと高等2年から女学校3年生に編入学し4年生を卒業しました。
その年、運のよい事に三重県教員養成所というのが出来て、そこに入り初等科訓導として教員になれました。そして、鈴鹿郡久間田村尋常高等小学校初等科訓導として採用されました。月給45円です。久間田小学校は男の先生は兵隊に召集されるか、志摩へ防空壕堀りに動員されて、校長、教頭の他は女教師でした。女学校を卒業すれば簡単に代用教員になれました。女教師が13人で師範を卒業した本科訓導が1人、次が初等科訓導の私。以下代用教員だったと思います。
運動場には奉安殿があり、天皇・皇后両陛下の御真影が安置されていました。戦争で危ないと職員室の正面に移され教師も生徒も出入り時に頭を下げました。また、焼夷弾が落とされる事を考え、教室の天井を抜きました。抜いた天井の板で高等科の男子生徒が飛行機を作り、運動場に並べたこともありました。
学徒動員の付添い
〔付添い教員の仕事〕
学生の時も出征兵士の家の農作業の手伝い勤労奉仕に行きましたし、教師になってからは生徒を勤労奉仕に出し、子守や農作業の手伝いをさせました。昭和20年の4月、本当に無謀な事…。20歳の教師経験の浅い私が、高等科2年の女生徒担任(36人)を命ぜられたのです。担任といっても実際は学徒動員の付添い教師です。20年の4月1日から終戦の8月まででしたが大変な事でした。
鈴鹿郡(鈴鹿市の西部、亀山、関、加太)の高等科2年の女生徒は全員学徒動員を受けました。400人くらいだったと思います。現中央道路の西端、汲川原橋の南に汲川原宿舎があり、そこで合宿です。鈴鹿海軍工廠機銃部に配属されたのでした。生徒は個人の帰省など一切許されず鉄砲の弾作りでした。
生徒は午前6時と午後1時の2交替で各校毎に戦闘帽をかぶり、モンペで整列して軍歌を歌って東の方の現場へ向かいました。教師は自校の生徒を引率して現場まで送り、また迎えに行きましたが、生徒の作業場へは一度も入れませんでした。生徒の作業中は自由なので宿舎で生徒の部屋の点検、片付け、掃除などして、時間になると迎えに行き、引率し軍歌を歌って宿舎へ帰り、食事、入浴、就寝などの世話をして1日を終わりました。
〔寮の生活〕
部屋は狭い4人部屋で、畳も古く汚くなりゆとりなく、布団は色あせたせんべい布団でノミやシラミ、ダニが湧きました。髪を洗う石鹸もなく、洗わないので毛ジラミが動くのが目で見えるほどでした。今思うと済まない事をしましたが、1列に並べDDTを容赦なく、真っ白にかけました。そうしないと、シラミが取れませんでした。14歳のおしゃれのしたい頃の子に可哀想な事をしました。風呂はコンクリートの丸い大きなものでした。各校毎に順に入りました。湯の中へドボンと入り、中でゴシゴシです。教師は生徒が終わってからですが、何とまぁ、女の子でも成長期ですので、大きな風呂なのに5ミリくらいの油の層が張って、それをかき分けて入らなければなりません。私は20歳の娘。よう入らず、寮母さん達の入る上り湯にこっそり入ったつもりが、よく見つかり度々舎管に呼び出されて叱られました。他の付添いの先生は30歳くらいで、既婚者もおられ、みんなしっかりしておられ、要領がよさそうでした。
食事はサツマイモやジャガイモに飯がついた芋飯が四角な木箱に入り、温かくありませんでした。おかずは味噌汁が多く、ごみの様な海藻が多く、まずかったのですがそれしかないので黙って食べました。
〔生徒の家族の出征時〕
生徒の父や兄が出征する日も、個人の帰省は許されません。生徒は帰りたいと言うし、家族の者も帰してほしいと言います。戦死して今生の別れになるかもわかりません。それで夜、家から迎えに来させ、裏口からこっそり「明日の朝、点呼までに必ず帰ってきて」としっかり約束しても、3人帰って来てくれず、舎管に呼び出され「久間田の先生は視学(現教育長)言いつける」と、ひどくと怒られた事がありました。そんな事などあって、20歳の私には、すごく重荷でお手上げし、辞めるより仕方なく、8月1日付で退職願を出しました。
〔空襲警報〕
空襲警報が出るたびに、夜でも昼でも汲川原橋の下の防空壕へ生徒を引率して避難させ、教師は入口に立って様子を見ていました。私は8月1日付けで退職願が提出してあったので、実家にいた時の事です。算所に焼夷弾が落ち警報が鳴り響きました。替わりの教師が来ておらず、警報中無我夢中で自転車を飛ばし、宿舎へ行きました。幸いな事に生徒は寮ではなく現場にいたので無事で助かり、本当によかったです。
〔玉音放送〕
玉音放送は、全員宿舎の食堂に集め、みんなでラジオ放送を聞きました。私はしっかり聞き、終戦を知りました。生徒には陛下の声が落ちておられたので、聞き取れなかった様でした。教師は終戦を理解したけど頭の中がからっぽで、話す声も泣く涙も出ず、唖然とし何をしたか記憶がないです。勝つ負けるなんて考える事もなく、毎日が必死でした。早速生徒に帰り支度をさせ、黙って一生懸命に生徒を連れて学校へ帰りました。次の日学校に出勤し、教壇に立って授業をしました。
戦後の教育
終戦で生徒と共に学校に帰り、やっと教室で授業ができる教師になれました。退職願を出してありましたが、終戦のどさくさでうやむやになり、私も辞める必要がなくなり、そのまま首がつながり、勤める事ができてよかったです。終戦が8月15日でなかったら退職しておりました。私は勤労奉仕などであまり勉強せずに教師になったので、教育技術などの本を買い、必死で勉強しました。私ばかりではなく、若い教師はみんな同じです。戦後は夏休みなど休み毎に認定講習があり、鈴鹿市と亀山市の教員は必ず講習を受けなければなりませんでした。認定講習で単位を取得し、代用教員は2級に2級の私は1級を収得しました。認定講習は神戸小学校であり、自転車で通いました。
私は軍国主義の教育を受け、軍国主義の教育をしました。そして勝つことを信じ、生徒にも勝つ事を信じさせて、学徒動員の付添いもしました。「絶対勝つに決まっている」と言わなければ勤められません。私には強い信念はなく、実際に戦争に勝つとか負けるかもとか考えず、一応勝つ事にしていました。ところが終戦でマッカーサー元帥が日本憲法を改正し、平和教育に切り替わりました。ずっと軍国主義の教育をしてきて、どうやって平和教育を生徒にしたのか記憶にありませんが、お上の言う通り憲法改正により、校長先生の言う通りに動いたのだと思います。それからずっと平和教育をしてきました。
私は久間田小から石薬師小など鈴鹿市西部の小学校に35年間勤め、よき生徒とよき父兄に恵まれ充実した教師生活を送らせてもらいました。55歳の定年を鈴西小(旧久間田)で迎え、現在、平和な日々を送り感謝の毎日です。
戦後の生活と嫁入り
戦後も米や衣料などの配給制度は続いてました。農家も秋に米を収穫し、家族分の保有米を残し、後は全部供出の割り当てがあり、供出米を納めておりましたが、少しは残りがありまして、ヤミで米を売っていました。私は親に食べさせてもらい、給料を受けていたので幸いな事に食べる事とお金の苦労はしなくてよかったです。
昭和25年、私は川崎へ嫁ぎました。その頃もまだ配給制度で、1年分の残りの米をカマスに入れて嫁入り道具と一緒に持って行きました。嫁入りには布団や着物を揃えなければなりません。衣料も1人何点かの配給制でした。親はまず、衣料切符が不要な家を探して、ヤミ米のお金で衣料切符を買い、それにお金を出して嫁入りの着物や布団を買って揃えてくれました。お金を出しても切符を貰えない家へは、物々交換、米やイモを持って行きました。それから、甲斐の地区は物品を外へ出す事が禁じられており、嫁入りでも道具は出す事が禁じられ、見つかったら没収です。ところが、裏もありまして、昼間は監視人が道にいるけれど、日が暮れるといなくなるのです。だから私の道具は日が暮れてからこっそり大八車で定五郎橋を渡って、川崎へは夜の11時頃に着きました。