仲道隆さん(大正14年生まれ、一ノ宮地区在住)

117 ~ 119

戦前・戦中の長太と私

 生まれはね、長太です。昔はまだ鈴鹿市になってなかったから、河芸郡一ノ宮村南長太といっていたんです。私が生まれた家は農家だったので戦時中はひもじい思いはしなかったけど、米は供出、供出で安く買い上げられ、貧しい生活でした。昔の武士と百姓みたいなもんです。農家なのに米は十分食べられず、麦を入れたり、サツマイモ、ジャガイモを入れたりして腹は満たしてきました。

 昔の農家はみんな貧しかった。米の収入だけでは生活できないので米の収穫後、裏作として麦、菜種を作りました。桑畑もたくさんあって、だから「タヌキが出た」といわれています。養蚕業も盛んでした。

 田植えも今のような機械がなかったので「猫の手も借りたい」ということわざ通り、私は小学校1年生の時から午前4時に起こされ午後7時まで田んぼの中で1本1本丁寧に植えました。

 ちょっと話は飛びますが、私は7人兄弟の長男なのに分家して昭和30年に現在のところに家を建てました。隣と私の家2軒だけで箕田までまわりは全部田んぼでした。カエルが鳴き、トンボが飛び、夕方になるとホタルが飛び、蚊や蝿に悩まされ、セミが鳴き自然色豊かでした。昭和30年でそんなんですから、戦前の昭和10年頃はもっとさびしい田舎でした。世帯数も新町はまだなく、北長太と南長太合わせて300世帯くらいでした。

 子供の頃の伊勢湾はきれいでした。長太の浦の駅名に恥ずかしくない長太の海岸でした。海は遠瀬で砂浜が続き、小学校にはプールがないので全校児童が海まで行って海水浴をしました。中洲でマテ貝を獲り、アサリ、ハマグリもたくさん獲れました。今のような堤防はなく松林がずっと長く続いた自然のままの長太の浦海岸がなつかしいです。

 沖の方には網が張られ、ノリの養殖も行われていました。漁師さんが地引網もしていたんです。人手不足で漁師だけでは網が上がらないので「おーい、網が上がったぞ」と言われると百姓も手伝いに行って、そのお礼にイワシを3匹とか5匹、多いときには10匹の時もありました。それがおかずの足しになりました。


小学生の頃の思い出

 私は一ノ宮村第一尋常高等小学校に通いました。一家で3人くらいは同じ学校に通ってましたよ。家族が1ダースいるとかそんな時代でしたからね。

 まだ中国と戦争してた頃は、日本が勝った、勝ったで旗行列をして喜んでました。私らの遊びも兵隊ごっこやチャンバラごっことかですね。隣村の子供と集団になって、大声を出し合って戦争のまねごともしました。それくらい国の政治が軍国主義で、戦争のことばっかりだったんです。本当に戦局が厳しくなってくるのは昭和18年後半頃からだったように思いますね。

 学校の入口のところには奉安殿っていって、鉄筋のちっさな建物があって、そこに天皇陛下の写真と教育勅語が鍵をかけて置いてあって、登校してくるとそこに向かって2礼2拍するんです。訓練では天皇陛下の写真を背負って逃げよとか、そんなんばっかりだった。

 ここからも何十人も兵隊に行きました。日の丸の旗振って、軍歌を歌って見送るんです。戦死者が出ると村葬をするんです。初めの頃は勝ち戦でしたから、遺骨も帰ってきてましたし、中には立派な碑を建てる人もいましたよ。遺骨が帰ってくると、村民みんなが集まって小学校の運動場で、村長が司会をして慰霊祭をやるわけね。その時に、村長が悔やみの言葉を言うんですけどね、その「あぁ悲しきかな、あぁ悲しきかな」の言葉が今も耳に焼きついて残ってます。まだ小学生だったから軍国主義が徹底してて、国のためなら死んでもいいし、国のために働くことは国民の義務だと思ってました。


三重師範学校に進学

 小学校を卒業してから、私は三重師範学校に進みました。僕ね、体がちょっと弱かったんです。だから軍需工場とかね、そういったところへも受からなかった。後から聞いた話やけど、師範学校へ行くと兵役免除っていうもんで、長男やし、成績もどちらかと言えば良い方やったで行くことにしたの。お金はどうしとったんかな。1学期で100円持ってった覚えがあるし、寮費も15円くらいしたと思うんですよね。当時は1,000円で立派な家が建つ時代やで、えらい金ですよ。

 学校はね、どんなに近くから来てようが、全員が寮生活でした。だんだん戦争が厳しくなってくると、風呂は3日に1回とか、「外部飲食罷りならん」ってことで、門限が6時までになったりしました。1分でも遅れたら罰則です。朝も起床ラッパで6時に起きて点呼。そんなことで、ずーっと時間に振り回されるわけですね。朝の点呼ではさ、6時にみんなが運動場に並ぶんです。それも、素足で出てこいって言うんよ。冬には雪が20センチくらい積もってるところに素足で出て行って、それで歩くんだったらまだいいわ。そこで立ったまま校長の話を聞くんです。

 学校には配属将校がおって、その人がいろんな権力を握っとるわけですよ。それがまた厳しくてね。教練の時間には1時間匍匐前進とか、歩調をとれとか、時には津から伊勢までの往復を鉄砲を担いで歩かされたりね。でも、それはまだいい方。夏の暑い日にね、学生全員が運動場で不動の姿勢です。汗がダラダラ出てきてね、まだ走らされとる方がいいですよ。中には日射病で倒れる者もおりますね。今やったら大変ですよね。でも、当時は冷静なもんで、将校が「バケツに水汲んできてぶっかけよ!」と言うんですよ。それで、バーンってかけてやると不思議なもんで、ふっと起きあがってね、病院に行った者はおりませんでしたね。それから、朝の3時に起こされて「津から名古屋の熱田神宮まで走れ」って言われて走ったこともあったな。マラソンと一緒。道には先生が立っとったで迷わんかったね。60キロくらいを走るんですよ。ご飯も走りながら食べてね。早い者と遅い者では2時間くらい差がありましたわ。早い者は11時には着いてたんじゃないですかね。それでも落伍者は1人もいなかったんですよ。帰りは全員が電車で帰ってきました。次の日には足がパンパンでしたけど、それも不思議と、教練の時間にはパッパと歩調をとったもんですね。やっぱり精神力があったんかな。

 師範学校もね、1部と2部とがあって、1部は高等小学校を卒業した者が行き、2部は中学校を卒業した者が行くんですね。高等小学校出の者は中学校出の者より3年学校へ行っとる時間が少ないでしょ、だから、1部の者は予科3年行って、それが終わると2部の者と合併して本科3年行くわけです。予科の3年間はまだ学徒動員もなく、勉強もできたけど、本科2年の時に生徒全員が学徒動員になって、楠の工場で対戦車砲造りをしました。楠の寮へ移って作業したんですよ。河芸女学校の生徒も来てましたけど、その子らは昼勤だけ。僕達は一般工員と一緒で、一週間交代で夜勤もさせられました。私らは、ご飯は食べさせてもらうけど、給料なんてなしですよ。他にも、今思えばよくもったと思うんだけど、寮生活中は支給された制服1着でずーっと過ごしましたね。洗濯なんてした覚えない。汗かいてもそのままやから、ウジが湧いただろうね。男やったから気にならんかったのかな。靴も1足だけ。今の者ではようできませんわな。

 工場での作業もさ、初めてやるもんだからそんな上手いこと作れやんわね。工場も紡績工場を軍需工場に変えたから、機械もボロボロのガタガタ。フライス盤でネジの頭を六角形に削るんですけど、いくらやっても狂ってくるんですよね。だから、ネジ1本作るのにも1時間も2時間もかかってさ。そんなんで戦争間に合います?間に合わないでしょ。


軍隊生活

 昭和20年の3月に兵役検査があって、私は乙種合格だったの。それから一週間くらいして赤紙が届きました。4月20日に名古屋守山部隊に入隊せよとのことでね。前日には親族、友人一同が家に集まって別れの食事をしたんです。見送りには飯野神社まで村民、児童みんなが送りに来てくれて、私はその大勢の前で出征の挨拶をしたことを覚えてますね。 

 軍隊に入隊しても武器不足で匍匐前進の訓練ばっかり。本当は対戦車砲の部隊なのにさ、その対戦車砲も見たことないのやに。もう、竹槍1本で戦うってことですね。末期的な頃だったから、訓練に行ってもウロウロしてるだけ。

 しばらくして、今度は、静岡で部隊をつくるって言われて名古屋から静岡まで歩いたんです。いっか(どれくらい)かかったかな。やっと静岡まで行ってここで訓練するのかなって思ってたら、今度は福井へ行くって言うんです。福井まではさすがに汽車に乗って行ったけどね。福井の小学校の体育館が駐屯地になって、そこに寝泊まりするんです。ろくな兵舎もなしです。

 軍隊生活についてもちょっと話しますと、1つの班は大体10~15人くらいで、私1人がどんなに真面目に頑張っても、軍隊ではなんでも連帯責任で、問題が起こるとみんなが一列縦隊になって両ビンタですわ。入隊したばっかりの私ら二等兵は、星2つの一等兵には何にも言えません。軍隊では星1つの差がすごく大きかったの。将校も威張ってたね。小隊長、中隊長には新兵が食事当番、靴磨き、私用とか、こき使われてくたくたですわ。更に夜になると不寝番ってのがあって、見張りですわな。夜中ですで眠くもなるわな。そしたら「目覚ましや!」って言うて、すかさず両ビンタ。それで目が覚めてもまた眠くなって両ビンタ。それの繰り返しですわ。顔がいくつあっても足りません。早よ戦争が終わらんかなぁって思っても、そんなこと口が裂けても言えませんわ。言ったら営倉入りでしょ。食べ物もね、だんだん悪くなって、米が減って麦や大豆が増えるんです。そうすると体力も気力も落ちますわな。若さで耐えてきたとはいえ、厳しいですわな。


終戦

 15日が終戦やわな。その日は、僕らはそんなことも知らんと匍匐前進やとかの訓練をしておったわけやね。そしたら、「12時になったら広場に集まれ」って言われてさ。もちろん何があるかなんて知らされてないから「何やろな、南方派遣の通知やろか」とか言いながらぼそぼそっと集まったわけさ。そしたら玉音放送やっていう事で、みんなで放送を聞いたの。これは僕の感想やけど、みんな割合疲れきっとってそれほどざわめきとか悲観的な涙もなく、ただポカンとしてたように思いますね。日本もね、その頃には自分1人が軍に刃向うようなことをすると、親から親戚から一族中がみんな国賊扱いさせる時代になってたから、そりゃ言いたいことがあってもみんな歯を食いしばっていい子にならざるを得ない。僕らはただ黙って言う事を聞いているだけでした。

 僕らの小隊長が血気のはやるような勇ましい男やったもんで、放送があった後、「俺の隊員はこっちに集まれ」って言うんです。小隊長のところに集まると、「今、天皇から放送があったけども、あれは作戦である。アメリカとかの世界の国々を安心させるだけであって、実際はもうじき神風が吹く。だから訓練は怠ったらいかん。今から匍匐前進や!」って言うて僕らの小隊だけ匍匐前進をさせられたの。そしたら小隊長が上の者に呼ばれてバーンっとやられてね。「僕も早まったわ」って言うてたけどね、僕はその時のことがかなり強く残ってますよ。

 終戦から10日くらいして、軍隊も解散したから、僕らもそこから故郷へ帰らなあかんので、僕ら下の者は米2升とちょっとした日用品を貰って解散したんです。長太までの切符も貰って汽車に乗って帰りました。その時の真実を言うと、一億玉砕っていうけど頭の中ではそんなこと言う事自体がおかしいって思ってました。でも、そんなこと言えませんわな。汽車の中には厳しい上官や憲兵もいないし、外地に戦争しに行かなくてもいい。両親や兄弟とも会える。戦争が終わって本当に良かったという気持ちです。体が丈夫な方じゃなかったから、それまでは国賊だけにはなりたくないって思いで一杯だったのが、そんなことを心配しなくていいって嬉しさと、これからの生活はどうなっていくんやろっていう不安が入り混じった複雑な気持ちでおったんじゃないかな。

 9月の初めくらいに鈴鹿に戻ってきて、しばらくしたら三重師範学校から卒業証書を渡すから学校に集まれってことになりました。僕はね、本科1年の時まで勉強しただけで、後は学徒動員、軍隊入隊で勉強してなかったのに9月に繰り上げ卒業ですわ。卒業してからすぐに富洲原国民学校の勤務を命ずるってことで、9月から学校に入って教員生活をして戦後は過ごしてきました。  

[杉山亜有美]