男性(大正14年生まれ、若松地区在住) 

121 ~ 121

戦時中

 それまでは楠におったもんで、鈴鹿のことはあまりわからんけど、昭和19年の中頃に19歳で戦争に行ってな、内地で終戦を迎えたんや。徴兵検査で甲種合格になれんで第一乙種やった。戦争末期やろ、そのころには目さえ検査してよかったらな、合格やったんや。「見張りへ行け」ってことで横須賀にやられて。それから紀州防備隊いうてな、和歌山に配属になったんや。大きな小屋があってな、アメリカのグラマンやらB29やら見張って報告するのが仕事やったんさな。運悪く玉が当たって亡くなった人もおったけど、わしは生き残ってな。昭和20年の8月、特段警報が発令されてな、みなで「なんやろな」って言うておったんや。原子爆弾さ。そんで15日には、みんな集められてな、「帰らしたる」って言われたんや、終戦さ。玉音放送は聞かせられなんだ。それから「アメリカさんが来る」って言うてな、弾やなんや集めてっていう作業を2か月くらいさせられたな。その辺を耕したりもしてな、飢え死にせん程度には食べやしてもらうことはできた。そんで、「もう帰れ」ってことで帰らしてもろうたんや。


戦後の生活

 河芸に帰ってきて、これっちゅう仕事もないでな、海に行って網引く手伝いなしたけどな、重たい網が辛抱できんでな、2日で辞めてしもた。浜に行けば、働くことはできたんやけどな。そんで、工場の雑役に使ってもろうたら、「おまえ、よう働くなぁ」というて、社長に目をかけてもらって。奥さんをリヤカーに乗せて送り迎えなんかやったりしとったら、「紡績業に紹介したる」ってことで採用してくれてな。北楠の大東紡にきて社員寮に入ったんや。昭和の22年の暮やったな。楠は東亜紡、北楠は東洋紡があってな、北楠の東洋紡で定年前まで働いた。東洋紡は富田や塩浜にも工場もあって、そっちは空襲でだいぶ荒れておったらしいですが、北楠の工場はそんに荒れとる感じもなかったな。機械もあったし生産できとったな。オーストラリアからきた羊毛を選別して、機械にかけて伸ばすのやな。そんで梳毛(そもう)して巻き取って圧縮して染色するんや。わしは染める薬品を間違わん様に混ぜて染めよった。昭和30年に入ってな、朝鮮事変が始まると景気が急にようなってな、材料がポンポン入ってくるようになってな、生産をどんどんするようになったんや。朝鮮事変でもの凄く変わったわ。(戦後すぐはね、食べるもんがなくてな、百姓して帰ってくると、おひつまで盗まれてることもあったわ。子供を生むにも、脱脂綿やらなくてね、そんなんは全部切符やったんや。下紙がなくてね。それが一番苦労したわね。妻談)そういう時代やったね。仕事は基本2交代やったが、朝鮮戦争の後のころは朝5時から13時までと13時から22時まで、22時から5時までという3交代体制で生産したこともあったな。その頃、子供は会社の中の幼稚園にやっとったんやからね。買い物も何でも東洋紡の門を出んとできたんだからね。紡績はそんだけ景気がよかったのさ。今はもう駄目やけどな。そんで、昭和49年に若松に家を建てて社宅を出て、昭和56年頃に退職したんや。##R@[小川真依]