男性(大正15年生まれ、白子地区在住) 

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軍施設、人々との関わり

 生まれは現在の江島町で、白子小学校へ通学していました。昭和9,10年頃か、小学校の頃、鈴鹿海軍航空隊の兵舎を建てる工事のため、たくさんの大工さんが他県から集って来ており、私の家にも10人程下宿していました。私の家は昔からの古い家で、田の字型の部屋数は多い方でした。裏の方には8畳程の離れ屋敷があり、その離れには大工の棟梁夫婦に貸していて、母屋の方は職人が寝泊まりし、食事は棟梁の奥さんが作っていました。食事は母屋の方でしていましたが、夜には酒、ビール等を飲み、何時か鰻丼を食べていたようで、その匂いだけが私共の居間にも届き、食べたかったです。多分、大工さんは金儲けがよいのだろうと子供心に思いました。

 その後、昭和14年頃か、この辺りは下士官夫婦のための借家を建てる家が多くありました。士官は航空隊の前の丘に夫婦の官舎が建っていました。私の家も大工さんが帰ってからは、母屋の部屋には水兵さんが5,6人下宿していましたし、裏の離れ屋敷には下士官が2,3人下宿するようになっていました。結婚すると別の借家に移っていきましたが、その間、海水浴とか銭湯に一緒に行ったこともあり、写真もよく撮ってもらいました。今は懐かしく思い出します。


練習機の墜落

 赤トンボ(練習機)は、いつもは海の方で練習し、飛行場へ戻る時は家の上空を飛んでいたんです。ですが、その日はエンジンの音が異常で、さらに低空で飛んで行ったので、外で遊んでいたみんなで「おかしいな」と空を見上げていると、西の方で大きな音がし、「落ちたぞー」とみんなで西の田んぼに見に行きました。墜落していた赤トンボは一回転して車輪を上にして墜落していました。たぶん田んぼの畔に引っかかったんでしょう。搭乗員は無事だったようでした。


軍志願の失敗

 小学校が終って15歳の時、名古屋の軍需工場へ就職しました。技能者養成所を終って、海軍の飛行機組立て工場へ回されました。その時代、軍国主義の教育で洗脳された少年は、本物の日の丸を付けた飛行機を目の前で見たり、操縦席に座ったり、とても感激したものです。

 その後、18年頃、少年兵(少年飛行兵、戦車兵、通信兵、海軍の予科練等)募集の案内書をよく見かけるようになりました。友達とも相談して、どうせ20歳で徴兵にとられるなら1年でも早く行った方が古兵になれるから、と、ただ単純な考えで願書を提出したのです。その願書が本籍地の役場へ回され、役場で勤めておりました親戚の叔父が書類を見るや、「あそこの息子が志願しとるわ」と私の親に見せ、私は呼び戻されました。親からは「兄も今出征しているのに、お前までが志願する事は無いだろう…」と懇々と言われ、下宿の兵隊さんに軍隊というものをよく聞けと言われました。下宿の下士官にも「よく志願してくる少年もいるが、全く軍隊という所を知らない」と言われました。軍隊の中でよく歌われている歌に「こんな地獄の軍隊へ志願して来る馬鹿もある」と。お前もその馬鹿のうちや。更に軍隊生活の中でも「鬼の木更津、蛇の鈴鹿」と言われる程、鈴鹿の訓練の厳しいなど、諭されました。20歳になれば「いや」でも軍隊へとられるんだから志願することはない、と。

 その後20歳の時の2月に、徴兵検査を受け、合格しました。赤紙(召集令状)を待つだけでしたが、終戦で命を繋いだのです。思えば、親の心もわからず、先のみえない単純なその当時の若者の考えでした。


戦後、航空隊の処理

 終戦後、軍需工場が潰れ、若者は働く場所もなく、みんな地元へ帰って来ました。勿論、復員者もです。私はその年の秋頃だったか、友達に誘われ、航空隊にアメリカ兵の使役として行きました。まず集合場所は海軍の酒保(一般兵の売店、休憩所)、現在のジャスコの西側です。朝8時頃集合し、トラック2,3台に分乗して航空隊まで行きます。各々数名に分かれ、アメリカ兵の指示の下、作業にあたっていました。私は爆破作業にあたり、爆弾をジープの荷台に積み込み、各壕に退避していた飛行機の下へ爆弾を2個運び込み、アメリカ兵が導火線に火をつけ、サイレンを鳴らしながら、ジープで格納庫まで逃げてくるのです。その作業が3,4日続きましたが、ほとんどが練習機で、その他の飛行機も数機ありました。その後は機銃、と爆弾類は弾薬庫から運び出し、深い壕の中へ放り込んで焼却しました。

 また、別の作業では航空隊にある石炭を神戸の西の方、たぶん石薬師だと思いますが、軍の施設へトラックで運びました。途中の道路はガタガタ道で、今のように舗装道路ではなく穴ボコだらけだったので荷台の石炭が落ちないよう、ゆっくり走っていました。神戸の町では、「バラバラ」と石炭が落ちると、それを町の人達が拾い集めていました。翌日になると、人数が増え、中にはバケツを持って、「これに入れていくれ」と叫びながら、車の回りに集ってくるので、足で荷台の石炭を道路へ蹴落としてやったのです。みんな喜んでいました。燃料が乏しかった時代です。


戦後の発展

 戦前からも伊勢街道沿いの白子の町は、神戸に次いで商店も多く華やかな通りでした。特に江島通りは夜でも人通りが多く、街も明るかったです。終戦後はパチンコ店が数店出来ましたし、又、酒屋、バー、ダンスホール、玉突き等が出来、映画館も戦前から2館あり、賑やかな街でした。その街も昭和40年代頃より商店は寂しくなり、1軒、2軒と店を閉める店が増えました。それも車社会となり、さらに規制緩和の影響で店が次々と姿を消していきました。今の時代、便利になりましたが昔の頃の人と人との買物ができた時代が懐かしく思えます。            

[※小川真依の原稿をもとにご本人が表現を改めた]


下宿されていた海軍さん(ご本人提供)