川出和彦さん(大正15年、玉垣地区在住)

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幼少から神戸中学時代まで

 私は大正15年に玉垣に生まれました。私の家には、「事業の根は苦しくともその実は甘し」という家訓があって、今でも家に掛けてあります。大祖父さんの頃から土地を広げていったようですな。大祖父さんは、人よりも朝早く起きて安塚の田畑を耕し、帰りは瓢箪にお酒を入れてそれを飲みながら人より遅く帰って来たといいます。祖父は、玉垣村の村会議員をしていました。父は、最初は四日市銀行の銀行員やったんですが、収入役で来てくれと当時の山川村長に口説かれて、あまり乗り気ではなかったようですが26歳の時に役場に入って、大正13年に36歳で村長になりました。そりゃ大変だったと思いますよ。

 順を追って戦争中のことをお話しますとね、昭和7年、満州事変の時に柳(鈴鹿市柳/玉垣村内の地名)の栗本さんが軍医として出征してね、戦死されて立派な村葬が行われましたよ。それが最初の村葬でした。

 私は、昭和8年に小学校に入学しました。昭和12年の7月7日に支那事変が起きましたな。その頃は連戦連勝で、新聞報道で勝ったというと、「万歳、万歳」で日中は日の丸の小旗を振り、軍歌を歌って村の中を歩くんですよ、夜は提灯行列でした。そして、出征兵士の家に行っては「万歳、万歳」とやってね。

 そして、昭和14年に中学校に入った頃からボツボツと勤労奉仕が始まりましてね、昭和15年までは稲刈りぐらいだったかな。中学2年の時に、親父が神戸中学校に勤労奉仕の依頼に来た時の写真が残っています。当時、中学校の生徒は4キロ以内の範囲で動員に出たので、玉垣の農家に稲刈りに来てもらったんですな。古高校長が率先して稲刈りをしている写真も残っています。古高圭一校長さんは、特異な校長さんで、2日間かけて名古屋まで中学生を夜間行軍させましてね、熱田神宮遥拝なんですよ。夕方から弁当や雨具を持って、今の国道23号線を校長先生自らが先頭で行軍しました。その当時は、馬が主な輸送手段だったから、馬の糞が道に落ちててね、夜に雨が降り、そのリンが燃えてね、青白く光って道の真ん中を照らしているんですよ。綺麗でしたよ。一時疲労を忘れました。そうやって雨に打たれながら名古屋まで行きました。中学2年生の時、昭和15年11月29日のことでした。昭和16年になると大東亜戦争が始まって、学校では三八式銃を持って野外での軍事教練、陸海軍への志願の話、体力増強の訓練で勉強の時間が少なくなりました。修学旅行は、満州旅行の積み立てをしていましたが、結局、橿原神宮遥拝と吉野の山の児島高徳の碑を回りました。

 昭和17年、中学4年生になると校長先生が変わってね、早川満三郎という校長先生でした。ある朝、校長先生の朝礼の訓示中に海軍航空隊の赤とんぼが神戸中学の上で衝突してね、2機がぶつかって、紅屋の所へ落ちたの。音はエンジンの音しか聞こえなかったけど、車輪とかが空中でバラバラになってね、中の兵隊さんが逆さまで落ちてくんのが見えたんですよ。校長さんの訓示そこそこに神戸中生徒で消火にかけつけました。その時の消火活動で飛んできた瓦が頭にあたりましてね、怪我をしました。

 中学4年の時には、相撲道場と弓道場が出来て、私は漢文の先生で相撲が好きな花木義郎先生(あだ名はトロさん)が面白い先生なので、相撲部に入りました。本校舎の西の方に農場があったんですが、そこに射撃場が出来て射撃訓練ができるようになりました。また学校は、1500円でグライダーを買いまして、グライダー部が出来ました。それが誰が乗ってたんかなぁ、操縦を失敗しましてね、墜落して壊してしまってね。

 中学5年生の昭和18年7月の中頃には、広島の大竹海兵団に入団し、巡洋艦「矢矧」に乗艦し、海洋訓練を受けました。甲板掃除やカッターの櫓を漕ぐのはマメができて、それは大変でした。痛くて痛くて苦しい思いは忘れられなかったね。反対に、同じ年に第9回大日本中部体育大会に選抜で出場して、名古屋市瑞穂グラウンドで体操を披露したのは楽しい思い出です。私たちの青春時代は戦争の真っ最中で、殆ど勉強どころではなかったね。

 昭和19年頃には噂でね、マッチ箱くらいの大きさの爆弾でひとつの都市を破壊できるということを聞きました。理化学研究所が研究してるって。夢を持ちましたが、結局はアメリカに先を越されて原爆を落とされたわけですな。


海軍と家のこと

 その頃、私の家の奥座敷には三菱重工航空機整備工場勤務の大坪さんというご家族が住んでました。ご夫婦と男のお子さん1人と女のお子さんが2人の5人家族でした。その2階には鈴鹿海軍航空隊員の方が1人おられましたな。三菱重工の方は、昭和18年頃から昭和21年の春頃まで4年ばかりおられました。航空隊の方は、大東亜戦争が始まった昭和16年の頃からいらっしゃいましたが、間もなく出征されたと思います。どちらの方とも生活は別々でした。私は中学を出てから三重師範の寮に入りましたので、家での生活の様子はわかりません。ただ、航空隊の方は、ようチョコレートを下さったね、軍隊というところはすごいんだなと思いました。イモかじっとった時代ですからね。22,3歳くらいの方だったけど、玉垣村長をしていた親父とさかんに討論してね、意気って軍刀を振りかざしたのを覚えてます。一杯飲んでよう荒れてましたわ。親父は親父の考え方で諭しとったみたいですが、癪に障ったんかな。

 私の家の前には蔵があるんですが、軍の機関砲とか訓練で練習機の後ろに吹き流しをつけて射撃訓練する時の銃や時計や富士フィルムのフィルムとかが木箱に入ってね、何百と入ってましたよ。練習ではカメラで撮影したら、それを現像して命中したっていう訓練していたそうですな。爆弾でやられるといかんからって分散して保管したんでしょうな。終戦後は、うるさくて蔵に入っていた軍用物資も早々に頼んで運び出して空にしてもらったようです。

 親父の弟は桑名に住んでいましてね、名古屋の会社に通っていたんですが、桑名の空襲で焼け出されました。それで、家に住まわせてくれと頼ってきたのですが、親父は「海軍軍人さんや軍関係の家族が入っているので」と突っぱねましたね。兄弟の家族が家を焼かれて困っていても村長として海軍に協力しなければならない、今住んでいる兵隊さんを追い出して自分の兄弟を住まわせるということはできなかったんだと思います。親父も苦悩してましたよ。

 また、家の近くの双塚っていうところに私の家の畑があったんですが、古墳なんです。そこに海軍の機関砲が設置されていましたな。ところが、中村伍長とかいう人がそこで怪我し死亡したとかで、遺跡の祟りがあるといって、間も無く引き上げて行ったんですよ。機関砲は海軍航空隊を守るために設置したんです。そんなんが当時はいくつかあって、敵に向かって撃っているところも見かけました。祟りといえば、玉垣の地蔵大松でもね、邪魔やから海軍が切るということになって、切りかけたけれど、その人が病気になったとか飛行機が墜落したとかでやめたそうです。海軍でも験を担いだんですな。

 私の姉は24歳で徴用されて第二航空廠で飛行機に軍装させる作業をしていたようでした。海軍工廠で弾なんかを作って、三菱重工で飛行機を組み立てて、第二航空廠で軍装させるんです。そういう流れになってました。また、三菱重工で組み立てる飛行機の部品は、津のオーミケンシが翼を作って、プロペラを津の住友が、エンジンなんかは名古屋の方で作って持って来てました。それを玉垣の三菱重工に持って来て組み立ててたんです。その航空機を航空隊へ輸送するための通路はね、今の千代崎中学校から23号線に出る道路です。


父のこと

 親父はね、昭和12,3年頃から忙しかったね。玉垣にある鴫池(今の石垣池運動公園)やら石垣池や山上池を浚渫して、石垣池の中の島にその土を掘り上げるということをしてました。国から8万円の補助をもらってね。それで親父は、よく東京や津の県庁などあちこち行ってました。当時の玉垣としては大きな仕事のようでしたね。

 合併に関してはね、玉垣は、神戸と白子の間に挟まってますからね、やがて神戸からも白子からも合併の話があったらしく、両方から引っ張られましたに。最初は神戸から話があったみたいね。その後白子が稲生を入れて合併するって言いだしてね。それを結局は鈴鹿市の合併に持っていったんですから、親父は大変だったみたいですね。神戸は城下町やって言うし、白子は紀州藩領やって自負があるしね。

 親父のメモが残っています。親父は自分でまとめるつもりでメモを残しててね、結局、病気になって駄目でしたけどな。それによると、昭和17年の7月13日に北部2町7か村合併問題に関する打ち合わせ会してます。県町村長会事務所、県の振興課長、都市計画課長、みんな出てね、議題は「亀山町国府井田川両村合併の問題」、「石薬師高津瀬庄野牧田各村の合併問題」、「北部二町七ヶ村あるいは一町六ヶ村の合併問題」だったようですな。「稲生村としては白子町の合併に加入するにあらざれば合併に反対。この際は亀山・井田川は考えていない。栄・天名を含むかどうかは必要があれば差支えなし。一ノ宮村は大勢は順応するが村に希望がある。箕田村は一ノ宮が賛成なればいつにても賛成する。若松村は当初より9ヶ村の合併には大勢には順応する」とあります。「一町六ヶ村は旧河曲郡の地域をなすものなるが故にすべての点に共通的なものがある。二町七ヶ村と鈴鹿郡五ヶ村との合併の可否は如何。牧田・庄野・国府の三ヶ村にまたがり工廠が出来る。5ヶ年以内に人口10万を目標に進まねばならぬ。関西本線の庄野が重要性を負んでくる。すぐ山、鈴鹿川、相当の土木費がいる。国府村は5千や1万を収容できる。牧田・飯野・神戸・河曲が人口10万を収容する。神戸は都市的な生命を持っている。海を持たない都市としてはどうか。若松・玉垣・白子・稲生を含めて伊勢湾に臨む。都市計画は新例。合併するかせないかは20日までに取り纏めるつもりである。軍、県と打ち合わせして町村会議員の全部か一部が加わるかは県へ一任。役場吏員の中に不賛成の人が一人または二人ある。これは予め心配は要しないという感を以てせられたい。」ということですけどね。この合併は、内務省が中心の町がないから難しいと強く反対したようですけどな、「神戸や津の町は城を中心で出来たが、今度の鈴鹿市は海軍工廠を中心に出来るんだ」と押し切ったそうです。工廠が出来ればその周辺に関連工場が出来るわな。それで20万都市を目指すんやってことでした。

 でも、そう簡単にはいきませんで、あれやこれやと揉めてましてな。玉垣村は白子と神戸に挟まれていて、白子についで人口は多かったし、合併した当時の面積は一番大きかったですしね。合併後は、鈴鹿市の初代収入役になり、昭和20年から戦後の21年11月まで助役を務めました。

 それでね、昭和19年の鈴鹿市勢案内があるんですが、丸秘って書いてあってね、その予算が、「大東亜戦争費」が2万円なのに、「官公衙及び工場地帯設定費」に100万円が使われてるんやな。全体予算が153万円なん。予算の3分の2が軍関係施設をつくるのに使われてるんや。まだまだこれから作って行く気だったんやわな。結局は軍への協力費やな。そりゃ、民生費とかガッと圧縮されてますわな。

 戦後、親父は大政翼賛会河芸郡支部長をしていたという理由で、公職追放の身になりました。講和条約が結ばれて追放解除になって、昭和30年の選挙で市会議員、34年に市会議長になったんかな。それを最後に引退しました。もう少し市議会議員で皆さんのお役にたちたかったようでしたが。


三重師範から出征、終戦

 私は神戸中学を卒業して、三重師範に進みました。師範の時にも動員があって、津市の青谷の工場建設の穴掘りに行ったり、米原の琵琶湖干拓にも行ったんですよ。津の青谷ってご存知かと思いますが、磨き砂の産地ですね、そこに動員に行きました。住友の工場を疎開するのに地下3階建ての穴を掘る作業でしたね。磨き砂は水を吸うと固まるんで、地下に工場が作れたんです。住友はそこに疎開してプロペラを作っていたんですね。また、昭和19年の冬から昭和20年の3月末まで、雪の降る中、琵琶湖の水位を1メートルから2メートル下げる作業もしました。琵琶湖は水位を下げるとすぐに田んぼになるんですよ。でも、水面を下げても田んぼは水につかりますから、深さ2メートル×幅4メートルくらいの暗渠を掘って排水させました。干拓した農地は2年間は肥料をあげなくてもよいということでしたよ。雪の深いところでは、土がドロドロになって作業が大変でした。

 そして昭和20年6月に豊橋の独立工兵隊に召集になりました。道を作ったり、壕を掘ったり、橋をかけたりするのが工兵隊の役目です。それまでは師範学校、工学部などは徴兵延期だったんですが、ところが途中で延期じゃなくなりまして、しかも昭和20年には20歳で召集だったのが19歳からに変わりました。それで私も引っかかってね、満19歳で召集になったんです。

 豊橋では、狭間小学校の講堂に駐屯して、壕を掘る訓練などを受けました。垂直に投土2メートル、水平に投土4メートルの穴を号令とともに休みなしで掘るという訓練です。戦闘をやる人のために穴を掘るんですから、実際に戦地に行っていたら大変でしたでしょうな。ところが、6月22日の空襲でB29の爆撃を受けましてね。照明弾が落ちてきて昼みたいに明るくなったら、続いてバラバラバラと焼夷弾が落ちてきました。油脂焼夷爆弾が落ちてくると油が散ってね、あちこちに火がつくんです。クリスマスツリーみたいでしたよ。校舎の壁に油が飛び散ってバァッと燃え出すんです。まず周囲を攻撃してね、逃げ場をなくしてから真ん中を攻撃してくるんですな。みんな火の中を逃げ惑っていました。

 それで焼け出されてね。特殊幹部候補生でしたので、久居で試験を受けて来いと言われて、6月末に試験を受けました。試験場で「家に帰ったら金槌とノコギリを忘れずにもってこい」と言われてね。軍隊でもその頃は何にもなかったんでしょうな。その試験の結果は、終戦になってから合格通知がきましたよ。親父は日本刀とピストルなどを用意して待っててくれたようですけど、必要なくなったね。

 それで試験を受けた後、先遣隊は鹿児島に行ったのでそれを追って、途中、長崎で兵器を宰領して貨車で鹿児島に行きました。もう鹿児島の街は焼け野原でした。伊集院というところから南方に行く予定でしたけど、沖縄がやられましてね、移動できずに九州の防備に回ったんです。その時に沖縄戦訓を読まされました。たとえば「喚声を挙げて突っ込めば敵兵は頭を抱えてわめき逃げていく」っていうやつでしたね。科学戦の現在、理不尽なものです。

 終戦は伊集院で迎えました。終戦を知ったのは8月23日でした。九州の山奥にいたので連絡がつかなかったんです。私らは8月25日に鈴鹿につきました。それから、すぐに原隊に戻れって命令を受けてね、また鹿児島に戻りました。それで戦後処理をして解隊になったのは10月でした。学校に戻ったのは10月27日でしたな。その時驚いたのはね、終戦直後の8月にね、2日で鹿児島から鈴鹿へ帰ってこれたんですよ。広島は原爆でやられて、おもな都市も爆撃でやられてますやろ、それでも線路がないところ以外、線路が残っているところではすべて汽車が動いているんですよ。当時の国鉄は立派なもんでしたな。


教員時代の思い出

 それで三重師範を出て、第7中学校、今の千代崎中学校の教員になったの。その後箕田小学校で10年ほど勤めて、それから旭が丘小学校に行きました。旭が丘には高専と大東紡と電通学園があるでしょ、北海道と沖縄以外は全国から生徒が来てたね。それでその時の教育長が一か所で10年以上勤めた先生ばかりを旭が丘小学校に集められてね。私なんて40歳で若い方でしたわ。それから北勢教育事務所、県庁と勤めて、稲生小学校の校長をしたあと、今度は市の教育委員会で学校の用地買収と学校建設の仕事をしました。平田野中学校と牧田小学校の分離新設の担当参事でね、清和小学校、明正小学校、創徳中学校、桜島小学校、稲生高校建設に関わりました。高校も用地買収と整地までは市がせなならんだ。桜島小学校は用地買収が済んでいたので校舎建設から、それ以外は用地買収から担当しました。明正小学校なんか、池を埋めなならんかったので、住民の反対もありましたな。池を埋めるのに雨量を調べたり大変でしたよ。それで小学校の名前を付ける時もね、池を埋め立てたから御池小学校という案が出て、でも池の管理は平田だから平田小学校、住所は住吉だから住吉小学校と3つ候補が出ましたわ。深伊沢(深溝・伊船・長沢)や三浜(3つの浜がある)みたいな名前にしようとしましたが、うまい組み合わせがなくて、全国の小学校名の付け方の調査をしたり、漢籍を調べたりしましたね。結局、学校の教育方針を考えようということになって「明るく楽しい子供を育てよう」ということで明生小学校となりました。それで「清く仲良く」から清和小学校、「創造性と徳性を育てる」から創徳中学校となりました。難しい問題でしたが、地域の皆さんのご理解が得られて、2年で片付きました。有難かったですね。

 昭和50年代は、第二次ベビーブームの入学適齢期が来て、児童・生徒が急激に増加した時期だったからね、ようけ学校も増やしたんですな。鈴鹿市も大変だったでしょうが、地域の方々がよく協力してくださいました。

 その後、白子小学校に校長で行ってね、最初にコンピュータを入れました。2000万円の予算でコンピューター教室を作ってもらいました。その時、三重県ではまだどこの小中学校もコンピューターが入ってなくて、市役所にも入ってなかったんです。実はね、放送教育が現場に入ったのは、戦後は会社より学校が先だったんです。アメリカが日本に勝った大きな要因の1つが、軍事教育に視聴覚をふんだんに使ったことでして、実戦を撮影して研究教育したんですな。だから、戦後は教育現場から先に視聴覚が入ってきたんです。やがてOHPやテレビ・ビデオが教育に導入されて進んできました。ところがね、昭和40年代になってね、学校現場で新しい機械の導入がピタッと止まってしまったんです。昭和42,3年頃、高等学校の商業科ではじめてコンピューターが導入された頃でしたな。白子小学校に、コンピューターを導入する時もまだ県内ではどこもコンピューターが入ってなくてね。調べたら岐阜では研究校を指定してコンピューター教育をしていたんで、職員とともに岐阜市の研究指定校に行ってね、研究したんですな。それで何とかコンピューターを導入してもらいました。そんな思い出があります。

[代田美里]

神戸中学校で勤労奉仕の依頼をする玉垣村長・川出精一氏(川出さん提供)